Jan. 19,2006 Thu    中村屋
 
 いまは昔の話、当時の庭園班チーフHKは甘党だった。なに、HKだけが甘党であったわけではない、同期のHJも私も甘党で、酒席よりお汁粉、ぜんざい、白玉あんみつ、わらびもちなどを食せる縁台に座すことを好んだ。
 
 分科会の帰り道、西門を出て高田馬場までの道中、早稲田通りにつながる路地を北に入った「中村屋」という甘党の店に寄るのが楽しみで、そこで小豆と蜜いっぱいのあんみつ、汁気のほとんどない濃厚な大納言(北海道産小豆)満杯のぜんざい、お汁粉を皆とともに食しながら、分科会のテーマとはまったく無縁のよもやま話に興じた。
五大老と名付けられた後輩たちもそのことはよく心得ていて、中村屋が近づくと私たち三古老の数歩先に出て、私たちと同期の女性、五大老と同期の女性を引率した。率先という言葉はそこから生まれたのかしらん。この「〇〇かしらん」は、HKがいつぞやメールに書いていて、その内容といい、「かしらん」といい、爆笑ものの名文だったこともあって、過日、「初笑い」で拝借しました。
 
 中村屋の内部は妙に薄暗く、あんみつやお汁粉の明るさとは裏腹のイメージだった。私にはひどく暗く感じられたが、面々からクレームらしきものが出なかったということは、やはり私は鳥目。メガネをかけた私の顔はフクロウに似ていたように思えたけれど、フクロウほどの愛嬌はなく、フクロウのような猛禽類でもなく、ただのブンジロウ(文治郎)。
甘いものを食べているときの彼らは実にしあわせそうな顔をしており、なかでもHKとMY君、そして私は、女性軍より満たされた顔をしていたのではなかったろうか。その三人が目をいちだんと細めたことでそれと知れたはず。いまでも時折「中村屋」のあんみつを食べたいと思うことはあるが、看板を上げているとしても、食べに行くにはちょっと高くつくから、文の助茶屋のあんみつでガマンしている。
 
 文の助茶屋は先代中村勘三郎の贔屓であったようで、祇園祭のお囃子の鳴る前、昭和62年7月7日夕刻、同所でみたことがある。勘三郎はあんみつを食していた。それから小一時間の後、料亭「京大和」の見晴らしの良い高台(四条通や祇園を一望できる)で勘三郎に会った。暮れなずむ夏の日が勘三郎の白の上下を橙色に染めていた。
舞台の上で若々しい役者も平地では年相応にみえることが多い、が、勘三郎のお洒落とダンディが年を隠していた。あのとき勘三郎は78才の誕生日(7月25日)前。私たちを一瞥した勘三郎の横顔に、あぁ同じ人間にまた見られてしまったと書いてあった。
 
 「こんにちは」、思わず挨拶した私に勘三郎は一瞬険のある目をしてこういった。
「どなたはんどしたか」。いかにも勘三郎らしいと思った。私のひとことが和服の熟年女性とのひとときを邪魔したと目は抗議していたが、なにか言わずにおれなかったのである。しかし、ことばに勢いはなかった。勘三郎の心臓はすでに弱りきっていたのだろう。それが勘三郎を見た最後だった。翌年4月、十七世中村勘三郎は不帰の人となった。極楽は日が短い。稀代の名優最後の夏。勘三郎の屋号は「中村屋」。京都も東京も、さまざまな思い出を私に残してくれた。
 
 「嵐心の会」一回目を京都でひらいたことはやはり意味のあることのように思えた。そして、第二回目を母校の近くでおこなうこともまた十分意味があった。私たちは二つの都で多くの時間を共有したし、そこに庭園班の仲間が集まることでいつでも時空を遡ることができる。嵐心の会は次々回以降、名古屋、金沢、松山、伊勢などでひらかれる可能性が高い。これも実に喜ばしいことで、学生時代にはなかった追体験を共有できる。それらの町は彼らの故郷なのだ。
 
 空一面にひろがった雪雲から、いまにも落ちてきそうな斑雪をからだで感じる季節。寒さにめっぽう弱いが、そういう季節であるがゆえに、昔のことを思い出せば、なぜか心地よい安堵感につつまれる。凍えそうな冬の夜、皆といっしょに食べたあんみつやお汁粉。その甘さの奥に、それまで感じたことのない若草のじゅうたんのような、深々としたやわらかい感触のおしよせる気配にからだが反応し、陶然となってゆく。
 
 たかがあんみつ、されどあんみつ。いつかまたどこかで、あんみつ食べたいですね。

前頁 目次 次頁