Jan. 12,2006 Thu    美しく青きドナウ
 
 いつのころからか、平成3年頃からであったと思うが、頻繁にクラシックコンサートを聴きに行くようになった。毎週どこかで欧州からの管弦楽団、ソリスト、歌劇場の引っ越し公演などがおこなわれていた。大阪のシンフォニーホール、いずみホール、オープン仕立てのフェニックスホールや京都コンサートホールへは取っかえ引っかえ毎週のように聴きに行った。
 
 ブラームスの交響曲とヴァイオリン協奏曲もよかったが、私はオペラやオペレッタのガラ・コンサートが好きだった。日本公演となると、私たちによく知られている歌を選曲してくれる。
「トスカ」なら「歌に生き恋に生き」と「星は光りぬ」、「椿姫」なら「乾杯の歌」、「トゥーランドット」なら「だれも寝てはならぬ」、「ジュディッタ」は「熱きくちづけ」、「ほほえみの国」は「君はわが心のすべて」、「伯爵令嬢マリツァ」は「ウィーンによろしく」など、いずれ劣らぬ名曲である。
 
 これらの歌は有名だから名曲なのではない、私たちの心を高め、熱くし、解放してくれるから名曲なのだ。それは音楽の持つ力というべきものであって、私たちのなかにどのような時間が流れていようとも、聴けばしばし時間が止まり、芳潤と高揚、憂愁と流麗に身を任せられるだけの力を持つのである。そして名曲は私たちを追想の世界へといざなってくれる。
 
 そういう音楽のなかでも特別だったのは、ヨハン・シュトラウスU世の作曲した一連のワルツだった。CDの名盤で聴いてもうっとりするが、生演奏にはおよばない。
音楽であるかぎりにおいて、ウィンナ・ワルツやオペレッタ序曲の演奏が、著名なオーケストラとそうでないオーケストラとで音の調べや精緻に多少の差はあっても、大きく異なることはない。著名かどうかは宣伝者側が決め、音楽の良否は自分の耳が決めるものであるだろう。
 
 生のコンサートとCDの違いをあえていえば、一体感と元気の付与の有無であると思う。聴きたい曲をCDで聴いても一体感を得ることはほとんどない、が、生の舞台は指揮者やソリスト、歌手などと一体感を持つことができる。
楽器のうなり声‥弦のすすり泣きや独白、管の喜びや豊満‥が耳だけでなく身体全体に押し寄せ、皮膚を突き破って血管にまで侵入してきそうな勢いを感じる。さらに、彼らの息づかいさえ聞こえてくるのである。
 
 2000年まで長年にわたって聴きに行ったメラニー・ホリディ&リシャード・カルチコフスキーのジルベスターコンサートも、現在も続いているウィーンフィルの9人(ウィーン・リングアンサンブル)によるニューイヤーコンサートも、彼らとの、音楽との一体感を与えてくれた。しかし、それ以上のものを私に与えてもくれた。それはほかでもない元気である。
 
 ジルベスター(大晦日=ドイツ語)でもニューイヤーでも、アンコール演奏の定番はヨハン・シュトラウスU世と同T世作曲の「美しく青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」。「美しく青きドナウ」は、1866年の普墺戦争でプロシアに敗北し、失意と落胆の淵にあったオーストリアを、とりわけウィーンの人々の心を癒し、元気づけるためにヨハン・シュトラウスU世が翌1867年に作曲したという。
 
 曲のはじまりはドナウ川の源流付近であろう、渾々と湧き出る清冽な水を思わせるヴァイオリンの微かな音が流れ、それに小鳥のさえずりが混じってくる。ドナウはいくつかの支流と合流しながら徐々に大きな流れとなってゆく。戦いに敗れても、川の名は違っても、私たちにも悠久のドナウがある。

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