Jan. 11,2013 Fri    白川義員講演会
 
 2013年1月5日午後、写真家の白川義員氏の講演会が大阪梅田の某百貨店でおこなわれた。白川さんは1935年生まれなのだが、外見は1949年生まれの小生とほとんど差異がない。小生も実は年齢より若くみられることが多いので、白川義員恐るべし。
 
 話は1957年、中央テレビジョンにカメラマンとして入社した時点にさかのぼってスタートした。中央テレビジョンは現在のフジテレビである。ニッポン放送と文化放送を主体に松竹、東宝、大映の各映画会社が設立した富士テレビジョンに決まるまで中央テレビジョンと呼ばれた。当時の富士テレビにはプロデューサー、ディレクターと称する人々は多くいたけれど、カメラマンはニッポン放送から来た白川義員ひとりだったこともあり、当然のごとく部門責任者に抜擢された。
 
 転機となったのは1962年、中日新聞社の特派員としてヨーロッパほか35カ国を8ヶ月にわたって撮影旅行したことである。特にマッターホルンとの出会いが白川さんの生き方を変えた。日の出と日没時、赤やオレンジ、ゴールドに染まるマッターホルンの鮮烈荘厳な風景にしばし茫然とし、シャッターを押すことさえ忘れたという。
そのときの模様は後年「世界わが心の旅・マッターホルン」で放送されている。白川さんは帰国後、フジテレビを退社してフリーカメラマンの道を歩み始めた。撮影旅行中、ロンドンで当時舞台役者として名をあげていたショーン・コネリーの写真撮影をおこなう。ジェームズ・ボンドで世界に名を知られる前のことだ。4時間の撮影予定はショーン・コネリーの演出協力により1時間で終わった。早く終わったということでショーン側から希望を聞かれた白川さんはロンドンの大きな書店を何軒か案内してほしいと伝えたそうである。
 
 当時、山岳写真のほとんどはモノクロ。主な書店を片っ端から回って白川さんが思ったのは、それまでの常識を破るカラー写真、しかも昼間の青ではなく早朝や夕方のオレンジ、赤、金色であらわすということだった。その表現法は現在も変わらない。しかし白川さんの斬新さと「地球再発見による人間性の回復」を提唱したことがマスコミの非難の標的となり、白川さんのことばを借りると「なんだあの若造が」と誹謗されたそうだ。
 
 反骨とクチでいうのは簡単であるが、反骨を50年間貫き通すのは簡単ではない。いまだに白川さんは朝日、毎日、読売の大手全国紙と頭が固く融通のきかない役人をこきおろす。外務省も45年くらい前は苦労人で話のわかる職員はいたけれど、それからあとはどうしようもないという。かつての日本人は欧米に行くと敗戦国のサル呼ばわりされたが、昨今の同胞はそうした苦い経験もない。苦労しないから感性が鈍り、融通もきかない。
近ごろ発表した写真集「永遠の日本」の撮影でロケ地を旅したときもバカな役人に撮影の邪魔をされて閉口。国立公園法が廃止され自然公園法に変わって50年以上にもなる。いまだに古い名を使うのは許すとしても、枝葉末節をぐちゃぐちゃいって撮影にケチをつける。「そこは三脚禁止だ、撮影を中止せよ」。じっさいは撮影禁止じゃないのにもかかわらず。委曲を尽くして話せば、「土の下の種子に影響がでるから三脚を立てるな」。押し問答で2〜3時間ムダになった。
 
 撮影費用4億円のうちヘリコプターのチャーター費だけで2億1千万円ほどかかったというが、費用がかさんだ主たる理由は規制をクリアするため。規制のゆるやかなヨーロッパ諸国なら4分の1、円高もあって6分の1程度の費用ですんだのにとボヤくことしばし。
ヒマラヤ撮影中であったか、ヘリコプターが山壁の強い突風にあおられ、座席がはずれすさまじい勢いで天井と床にくり返したたきつけられ、頸椎の何カ所かを複雑骨折したことがある。キャンプ地の村に運ばれたが手術の設備がない。しかたなく首を固定したまま帰国した。医者は成功率15%の手術で、成功しても半身不随、車いすは免れないといい、誓約書にサインすらできない身体で手術室に入った。
 
 JCBほかのゴールドカードに入会しておいてよかったと白川さんはいう。死亡する確率は高い、生きながらえても4年、ほとんど死んだも同然ということで保険がおりた。そのおかげで撮影旅行の費用1億円の借金を返済できた。リハビリに6ヶ月かかったが復帰する。その後すぐヘリコプターに乗って撮影したが、身体が事故をおぼえていてシャッターもろくに切れなかったらしい。平常にもどるまで数ヶ月を要した。
それからのちもヒマラヤで遭難する。キャンプ最終日、あした村に到着というところで猛吹雪にあい、進むことも出来ず待機すること数日、とうとう最後の食料もなくなった。それから数日後、吹雪のなか隊を3つにわけ時間差で下山を決行。隊をわけたのはどれか一つでも助かればいいと思ったからである。
 
 しんがりは白川さんで、暗闇のなかを進んでいると、どこからか一条の光が進行方向にむかって差し込んできた。白川さんにはその光が神に思えた。そう言ったとき白川さんはことばをつまらせた。もう一度言おうとしてまたつまらせた。最前列中央に座っていた家内と私に白川さんの目からこぼれ落ちそうな何かが見えた。
「え〜と、何を話していましたかね」。白川義員はときおりそんなことを言う。死線を何度もかいくぐり、うらめしい顔ひとつしないのは、十分に我慢強いか、十分に発散しているのか。人間への憤りを自然への慈しみにかえる写真家なのかもしれない。
 
 1時間50分の講演はすべて体験にもとづくもので、おもしろさは無類、始まったと思ったら終わっていた。「自然の一部である人間が自然から隔絶した。大自然が発するイメージを感得する感性をなくした人間は根無し草になって漂っている」ということばもハラの底から噴出していた。

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