May 02,2012 Wed    裏切りのサーカス
 
 黄金週間に入る数日前、映画「裏切りのサーカス」をみた。1970年代初め、古き良き時代に翳りがさしはじめたころの英国でサーカスと呼ばれた諜報部の物語である。派手なアクションとドンパチで時間を稼ぐ米国の映画と異なり、地味に人間の言動を追っていく筋書きは新鮮で、巷にゴロゴロしているスパイ映画の派手な古臭さと一線を劃している。
「不滅の恋・べートーベン」でいいところをみせた英国俳優ゲイリー・オールドマンが老スパイをやり、諜報部にはコリン・ファース、マーク・ストロング、ベネディクト・カンバーバッチなど芸達者な英国俳優が出演、往年の映画ファンを魅了する。かつて家内は私をゲイリー・オールドマンと呼んだ。若干気をよくしたのだが、それは私の勘違いで、家内はゲーリー・オールドマンと言ったのだった。要するにゲリ気味の年寄り。
 
 映画をみて思ったのは、推理力は過去の体験の質に比例し、追体験の質も過去の体験の質に比例するということだった。人は結局、自分が思いたいようにしか思わない。が、そうであるならその思いが正鵠を射ているかどうか確かめなければならない。追体験することで自らの感性も試されるのだろう。
物事はどれも単純でなく、さまざまな選択肢はある。だからといって便宜的言葉だけが氾濫し、自己嫌悪に陥るほど豊かな感性を持たない人たちが何も決められないままでいると、昨今の政治と同じ状況となり、息が詰まってくる。
 
 人は果たしてどれだけ自分に忠実に、あるいは真摯にいられるだろう。いかなるときも自分自身を裏切らず事を運べるだろうか。よしんば自らへの裏切りを避けることはできても、加齢とともに身体が裏切る。この数年、毎年新たな病を得ている身には痛いほど実感できることであり、畢竟、身体に裏切られ続けておさらばということになるのだろう。
 
 昨夜、学生時代の同好会の後輩に電話して1時間ばかりおしゃべりした。或る後輩女性のことが話題に上り、気持ちを素早く察知し、心遣いできる癒し系M君でも女心を読むのは苦手なんだと言ったらば、好きになるとわからなくなるとM君にしてははっきりこたえていた。中途半端に交際した昔に比べたら、いまが恋愛中なのかもしれませんとも言っていた。仮想恋愛という意味である。
 
 その女性の母親も弟さんもM君と結婚するものと思っていたらしい。大学を卒業してまもなく交際しはじめたのだったが、相手はまだ学生、同好会の先輩後輩の気分で交際していたせいか、恋愛とか結婚とか意識しなかったという。すれ違いやいくつかの経緯をへて女性は別の男性と一緒になる。ゆずったという気持ちがM君に残っているとすれば、あの日のOB会、女性との再会が心の奥に封印されたM君の孤独感に癒しをもたらした。
「好きになるとわからなくなる」のセリフは初耳である。恋愛を意識しなかったというのもヘンである。ほんとうに結婚を意識していなかったといえるのだろうか。お互い学生ならともかく、M君はすでに社会人として収入を得ている。女性の実家の方たちが二人の結婚を考慮に入れても不思議ではない。
 
 思惑のすれ違いを生じさせたのは、交際の実態が甘ったるい恋愛とかけ離れていたからだ。女は生やさしいものではない、やさしさは時に中途半端とみなされ、やさしさの発露は綱渡りだ。やさしさと甘ったるさは似ているようで別物である。甘美な恋は快く息をするが、やさしい恋は咳をする。やさしさが仇にならないと誰にいえよう。
ところが、30有余年の時を経てなお女性の記憶にとどまり、心をゆさぶったのはM君のやさしさなのだ。結婚生活は空中ブランコ、イキが合わねばえらいことになる。長期におよぶ夫婦の騒乱は女性をして昔やさしかった男を追懐させる。誰にでもできる推理はここまで。これ以上の言及は憚られる。
 
 燃え尽き症候群でカラケシ状態になるのがさいわいというべきか、燃え尽きない交際であったのがさいわいというべきなのか、というようなことを言ったら、「人それぞれ」とM君はあたりまえのことを言うていました。そんなことを話していると、誰だったか「赤いコート」の女性の話をしていたのを思い出した。その話を法隆寺かどこかで聞いて以来、意中の女性でもないのに赤いコートが目の前を通り過ぎてゆく。遠い記憶がよみがえる。クチがすべる。
M君の交際や赤いコートの話はわれわれが再会しなかったら永久にお蔵入りしていた秘話である。秘話が日の目をみるのも何かの縁だろう。埋もれていた記憶の断片を拾い集めて書き記さなければ私はただのゲリ気味の年寄りでしかない。
 
 なににしても大昔のことだからと言ったのだが、あの独特のやわらかい口調でM君は、「いいえ、きのうのことです」と言っていた。
 
 
 
           2012年4月26日撮影 鏡にうつる顔は4〜5年前の多少若い顔なのに 写真はまったく


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