Mar. 28,2012 Wed    戦火の馬
 
 英国カントリーサイドの美しさに魅せられて13年、いまではもうそこにいなくても刻々と変化する風景がまぶたの奥にうかんでくる。折々に記してきたが、空気きたなく水まずい都会「美」の激変しやすさは、飽きっぽく質の悪い女と同じで底が浅く持続性に乏しい。
 
 俗に「いい年のとり方をした人」とかいう。ま、それは個人的嗜好もあり、顔と雰囲気だけでいい年のとり方をしたかどうかの判定はしがたいけれど、いい年のとり方をしていない女は顔にでる。
すなわち、些細なことでも他者を許さず生きてきた女の顔にはケンがある。要するにキツイ顔をしている。些細というのは定義づけが厄介で、針小棒大という言葉の意味はともかく、針を棒と言い張るのが、いい年のとり方をしていない女の常である。
 
 寛容ならざる人は一事が万事、何もかもひっくるめて他者の言質をとらえて許そうとはせず、時に勢いあまってかみつく。ここでまた厄介なことに、かみつく当人にかみついている自覚が皆無、もしくは稀薄なことである。
 
 先日、イングランド・デヴォン(州)のカントリーサイドを主な舞台にした映画「戦火の馬」をみた。デヴォンのほかにイングランド他州の農村もでてくる。それらの風景はどれも美しく、この映画をみにいったのも「きれいな景色をみる」ことだったから目的は果たした。
それでもこうして書き記すのは、予想以上にダートムーア(Dartmoor)とカースル・クーム(Castle Combe)の風景が鮮明だったからである。ダートムーアはデヴォンにあるが、カースル・クームはウィルトシャー(州)の小さな村で、2011年現在・347人の人口は、減ることはあっても増えることはないだろう。美しい村とはそういうものだ。
 
 映画にでてきたダートムーアの農場はイングランドの重要文化財指定の建物と仄聞するが、永年ファームステイにあこがれている身としては垂涎ものの農家であり、藁葺き屋根に土壁と周囲のロケーションをみてこれはと思った。
広大なダートムーア(945平方`)のほんの一部にすぎないとしても、単なる映像にすぎないとしても、みて損はない。「South England」に記したが、ダートムーアの名の由来は、ここを水源とするダート川(River Dart)と荒地(Moor)である。花崗岩の台地は泥炭と吸湿性にとむ芝草におおわれている。
 
 ダートムーアの自然は決してやさしくない。秋霜烈日、予期せぬ驟雨、一日に四季がある。しかしそれゆえに美しい。厳しい環境で育まれるのは農作物だけではない、夫婦親子の葛藤のなか愛も育まれる。そして葛藤にもたれ合いがないように愛もまたもたれ合わない。
そんなある日、妻は夫にいう。憎しみは増えても愛は減らない。憎しみが増えれば愛は減るのがお定まりの世の中で、苛酷な状況に必ずしも追随しない妻の姿勢が胸を打つ。
 
 窓を割って新しい風を入れようとすれば家まで壊してしまうこともある。だが厳しい自然に向き合っているから波瀾が起きても家を守ることができる。苛酷が意志を鍛えるのだ。情に篤いことと情に流されることは別である。
 
 映画の原作は1980年代の児童小説、作者は英国人、第一次世界大戦前後のイングランドとフランスの田園地帯が舞台、主人公は馬。サラブレッドなのだが、よんどころなく農耕馬にもなる。戦火のなかにも善意の人は必ずいる。
子ども向きだからということではなく、そうでなければ救済の道は拓かれない。美徳とは何か。こういうときの常套手段かもしれないが、人間が失いかけた美徳と同質のものを馬に託したのである。
 
 映画をみた日、外食した小さなレストランでズボンのポケットに手を入れた。そこにあるはずの車の鍵がない。反対のポケット、上着のポケット、ショルダーバッグのすみずみまで探したがなかった。映画の前に一度、見終わったときに一度、異なるビルのトイレに入った。
鍵を落としたとすれば、ハンカチを取り出したときに、ハンカチとともに鍵がポケットからすべり落ちたのだろう。二つのビル間の距離はおよそ1キロ。鍵は見つからなかった。遺失物の届けはないか尋ねたが空振り。
 
 駐車場は午後10時に閉まる。残された時間は2時間弱。スペアキーは自宅。現在地から自宅まで1時間。自宅から駐車場へも1時間。大急ぎで電車に乗った。電車が発車して気づいた、もしかしたら映画館のシートの上にあるかもしれない。乗換駅で映画館にそのむね連絡したら、最終回終了(21:45)次第、シート(予約席の番号を伝えた)を探すということだった。
 
 自宅にもどって鍵を持ち駐車場へ急いだ。駐車場到着寸前に連絡が入った。鍵はシートにあったそうだ。車に乗り込んだのは10時5分前。駐車場は静まりかえっていた。夜の散歩は疲れます。戦火の馬は自分でした。
 
 
        ダートムーア


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