Feb. 27,2012 Mon    役者
 
 身辺整理をしていたら、平成2年の年賀状が出てきた。松山愛佳のママ(松山政路夫人)からのものである。画像右が愛佳ちゃん、左が果琳ちゃん。「母親よりはチョイトおちるけどね」と書き記されている。子かならずしも親に似ず。寺島しのぶは菊五郎にも富司純子にも似ていない。強いていえば五代目菊五郎に似ているのではないだろうか。
松山御一家、当時は調布に住んでおられました。22年後の現在、果琳ちゃんも愛佳ちゃんも変わっていない。ダコタ・ファニングが愛佳ちゃん似であることも。
 
 愛佳ちゃんは日々の体験と自分史をブログに綴っている。家内が熱心に読んでいるところからして、ブログは楽しいにちがいない、パパの語り口ほどの魅力は未だないと思うけれど。較べ方は不適切かもしれないが、太地喜和子が女優として女性として周囲を魅了したように、松山政路も役者として人間として他を魅了した。
「子は三歳までに親に恩を返します」。21年前になるだろうか、松山政路はそういった。この言葉は、私淑していたNMさん(故人)の「子が親を超えることはできないものです」と共に生あるかぎり忘れないと思う。
 
 松山政路の楽屋をたずねては将棋ばかりさしていた時期もあった。方々の楽屋でさしたが、いちばん多かったのは大阪梅田コマ劇場だったと記憶している。将棋好きの共演者が出番のないとき楽屋に来て私たちふたりを囲んだ。そうしたギャラリーのなかで喜味こいしの風貌と雰囲気を追懐することがある。昔どこかで会ったことのあるようなほのぼのとした人だった。「師匠、ひとさしお願いできますか」といえば、「やりまひょか」といってくれそうな温かい雰囲気をもっていた。
 
 世の中には、合わせるのもかわすのもぼけるのもうまい人がいる。松山政路の芸と人柄は俳優仲間のみならず脚本家や演出家にも定評があった。1972年10月、紀伊國屋ホールでの「「ケイトンズヴィル事件の九人」(有吉佐和子脚色・演出)には、宇野重吉、滝沢修、杉村春子、小沢栄太郎、芦田伸介などの重鎮と共に緒形拳、松山政路(当時は松山省二)が出演。有吉佐和子作・演出により1975年1月「紀伊國屋ホール」で初演された「山彦ものがたり」。いずれの舞台も松山政路は高い評価を得ている。
 
 あいにく私はケイトンズヴィルをみておらず、山彦ものがたりにしてもみたのは1989年10月、大阪・近鉄劇場で上演されたときである。たしか音楽担当は前年冥府に召された内藤法美氏だったように思う。山彦ものがたりは「サルカニ合戦」や「桃太郎」などの日本昔話を題材とした有吉ミュージカル。
動物の滑稽味ある動きの連続で、体力勝負といってもいい舞台劇である。松山政路は傑作であったが、共演の尾藤イサオも奮闘していた。きわめつけは猿之助の「黒塚」を連想させる老婆。むろん松山政路が演じた。老婆の古径な風体とぶっかえりが秀逸。
 
 だがなんといっても松山政路の当たり役は「はなれ瞽女おりん」(有馬稲子)の下駄屋の平太郎である。国内の評価は上々として、海外公演における評価は図抜けて高い。
エディンバラ芸術祭で上演されたおりであったと記憶しているけれど、地元新聞(紙名は失念した)は、おりんの有馬稲子について記した数行より平太郎の松山政路に多くの行数を割き、絶讃していた。
 
 平太郎役は高橋幸治がやったこともある、しかしニン、ガラともに平太郎は松山政路のものであってほかのだれのものでもない。芝居の後半、脂ぎった醜悪さにつけこまれるおりんのあわれが傑出し、おりんの代わりに意趣返しをする平太郎の無念と怒りで舞台に独特の空気がただよう。平太郎はまっすぐ生きている。その時代と空気に客席が溶け込み一体となる。
 
 


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