Nov. 03,2011 Thu    絵画班チーフ藤咲博久
 
 その男は19〜20歳にしては肩幅が広く、胸も厚く、腰と臀部、太腿は肉体労働者のようにがっしりしていた。服を着ているとそうとわかる程度であったが、裸になるとそうした特徴がきわだっていた。グレコ・ローマの彫刻を思わせる均整、顔も彫りが深く、リーアム・ニーソン的な男っぽさを感じさせた。
藤咲とは早稲田大学・古美術研究会に入会時(1968)の新入生歓迎旅行、そして翌1969年の新入生歓迎旅行で行動をともにした。藤咲は2年のとき絵画班チーフだった。
 
 1968年の新入生歓迎旅行は山梨県の塩山に宿泊、1969年は伊豆・修善寺に宿泊し、いま思っても不思議なことは、両方の宿で深夜といってもいいような時間に、申し合わせたかのごとく藤咲と二人だけで風呂にいたことだ。
塩山の旅館の風呂は時間が時間だけにぬるま湯だった。藤咲は上がり湯を使えばと言ったが、上がり湯もぬるかった。お互い顔を見合わせて苦笑いした記憶がある。修善寺はいちおう温泉なのであったが、ここも適温とはいいがたく、藤咲は「風邪をひかないように」とつぶやいた。私への気遣いである。
 
 1969年1月、後期試験が始まっていた朝、学館にいた私の顔色がよくなかったのか、藤咲は朝飯を食べていないから学生食堂に行こうといって学食へ誘い、セルフサービス・カウンターから味噌汁を持ってきた。朝食はすませていた(渋谷南平台の学生専用センターは朝夕二食のまかない付き)けれど言えなくて味噌汁を頂戴した。
身体が温まって顔色がもどったのだろうか、藤咲は「効果覿面」と笑った。アルカイック・スマイルという言葉が浮かんだものである。そうなのだ、藤咲は笑顔もさまになっていた。
 
 当時、古美研には藤咲のほかに同期の2年生チーフが2人(堀喜代治=敬称略=と大村真理子さん)いた。ふつうチーフは3年生がやるのだが、諸般の事情で2年生がチーフになることもある。庭園班は3年生以上がいなくなったこともあって堀がチーフをやった。1年先輩のHSさんは何を考えていたのだろう。
堀の信望の篤さに居づらくなったわけでもないだろう、美女ぞろいの庭園班に目のやり場がなかったわけでも,ないだろう、しかし古美研を辞めていった。HSさんにしかわからない何かに息苦しくなったのかもしれない。HSさんはギター演奏が得意であったように記憶している。堀のあとは同期の萩庭寿山がチーフを引き継いだ。
 
 彫刻班の大村真理子さんがいつごろチーフに名乗りをあげたか知らない。推薦した人がいたかもしれないが、推薦されて名乗りをあげるタイプではなかったように思う。1年先輩の萩原さんがチーフになるのではという見方が強かったのではないだろうか。同期の加藤は大村さんの次にチーフとなった。
同時期、建築班チーフは伊藤秀男さん(3年生)、石彫班チーフは谷口宗男さん(3年生)だった。伊藤さんと谷口さんは風貌もタイプも異なるが、やわらかい物腰は共通していた。
 
 絵画班は少数派だが人材は豊富だった。藤咲の前のチーフは御大・尾久彰三さん。藤咲と同期の富田義博、神保共子さんは絵画・工芸への造詣が深いだけでなく、人柄もよくユーモアもあって、他班の人たちから受け入れられる何かを持っていた。富田、神保さんは庭園班の渕上正美と仲がよかった。
渕上は庭園班1年後輩の桑島君からも慕われていた。が、御大は別格としても藤咲の魅力は傑出していた。藤咲のようにさりげなく他者を思いやる人間は加速度的に減っている。
 
 ロシア文学を専攻していた藤咲は、学部は異なるが第二外国語でロシア語を選択し、同じ2年生チーフだった堀と気脈の通じ合う間柄ではなかったろうか。藤咲に関して堀と語り合ったことはほとんどないけれど、あるいは、藤咲との会話について堀の記憶が薄らいでいるのかもしれないけれど、学館で談笑する二人の姿をみたことはある。
 
 京都で堀と再会したのは2005年10月、30数年ぶりだった。なつかしさで胸がいっぱいになると想像していた。しかし意外なことに、きのう学館で別れてきょう会ったという感じだった。堀も同じことを書き記している。
そのとき何を話したのか覚えていない。再会して桑島、水谷、満田の各君とともに建仁寺に行き、祇園で飲み、翌日、嵐山と嵯峨野を散策し、嵐山の料亭でOB会をおこなったのに、何を話したのやら。
 
 古人を求めるにあらず、古人の求めるところを求むべし、であるとしても古人がなつかしい。藤咲はどうしているのだろう。5年ほど消息を追っているが、ようとして行方は知れない。渕上も依然消息不明である。

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