Oct. 20,2011 Thu    夢窓国師とチエちゃん

 
 秋がすこしずつ深まってゆくと落ち着かなくなる。ふつうそういう状態になるのは啓蟄の候のようにも思うのだけれど、秋なのである。
かつて庭園班では法学部か商学部の小さな部屋(語学用教室)を借りて月例分科会(月例会)をおこなっていた。熱心な部員とはいえなかったのでほとんど忘れてしまったが、1969年秋、MK君の研究発表だけはおぼえている。MK君の研究テーマは天龍寺だった。
 
 「天龍寺の名は足利直義の夢枕に大堰川の深淵から金龍が天にのぼっていったことによるといわれています。」「後醍醐天皇の菩提を弔い、南北朝の争乱で亡くなった人々の霊を慰撫するためにコクシムソウが尊氏にはたらきかけて…」「コクシムソウは天龍寺だけでなく西芳寺の作庭にもかかわり…」
 
 教室のうしろのほうでウチダくん、ミズタニくんが笑いを噛み殺している。MK君の話はつづく。「ここの池泉廻遊式庭園はコクシムソウが亀山や嵐山を借景としたもので…」
「お〜いM、きのうヤクマン上がりそこなったんだってなぁ」。うしろでだれかが言う。「からかうのはやめてヨ」MK君はまじめである。「チュンが2枚、湯疲れして山に寝ていたそうじゃないか。」だれかがつづける。数人の男たちがこらえきれず声を立てて笑いだす。「なんや、ボクが上がれなかったのがおもしろいんか。」MK君はまじめである。
 
 ミズタニくんが言った。「まだ気づかないの。天龍寺開山はだれだい。」 「国士無双‥‥あれッ、ちがった、夢窓国師や。みなさん、ちよっとまちがえました。」
そのあと月例会もなにもあったものではなく、「中村屋」へ行こうということになった。中村屋は早稲田西門から高田馬場への途中にあって、あんみつ、おしるこなど甘党の店、庭園班チーフHKが時々こっそり入っていた。MK君は多くの後輩のなかでは笑いを引き出し記憶に残った。人柄も抜群によかった。人柄といえばミズタニくんとアベくん、仲間に対して常に心を砕いていた。
 
 嵐山、嵯峨野散策時、毎回ではなかったが天龍寺にくりかえし拝観した。寄らないと落ち着かなかった。天龍寺の南、保津川沿いに料亭があり、コーヒーブレイクにも夕食にも利用した。初めての庭園班OB会の会場にもなった。小生の還暦祝いにささやかな席を設けた。昨年1月来、建物のホテル部分が取り壊され、現在も工事中。工事がいつ終わるのか、料亭が継続されるのかどうか定かではない。
 
 天龍寺、嵐山で思い出すのは、月例会のMK君、料亭に宿泊した人々である。モミジのような手にモミジを持っているのは宿泊者のひとりで、名はチエちゃん。撮影したのは朝。風景がきれいにみえるのは夜明けと黄昏だ。夜明けにくらべるとわれわれ黄昏はなんと美しさを欠くことか。
チエちゃんについていえば、可愛いと思うからいうことをきくオヤジの役割はしなかった。可愛いからいうことをきくオヤジは多いとして、可愛いと思うからいうことをきかない者もいる。子どもにとってはありがたくないだろう。
 
 中学生のころ、チエちゃんは「おカネ出すから、いつかヨーロッパに連れてってね」と言った。高校、大学と奨学金に頼らざるをえなかった。京都御所の北に隣接する大学を卒業後、金融機関に就職し、そして転職したころ、「会長さん(そう呼ばれていた)、ヨーロッパに行けなくなった」と言った。それから1年後、チエちゃんは結婚した。
 
 チエちゃんのママ西山優喜子さんは大黒信仰が篤かった。上の画像を撮影した日、料亭を出て竹やぶの道に向かって歩いていると、天龍寺近くの小さなお寺にお詣りしようと母親が突然言いだした。そうしたらそこに大黒さまが祀られていた。夢見心地の横顔から「そんな気がしたんだ」と母親のつぶやく声が聞こえた。大黒さまが母の夢を叶えてくれるかどうか分からないが、明るく生きてきた母子を守ってくれるだろう。
 
 チエちゃんが金融機関の面接試験をうけたとき、「尊敬する人は」という面接官の問いに「母です」とこたえたそうだ。金融機関の行員が母親に電話で知らせてくれたという。「チエもさすがにその時はママと言わなかったみたい」。ママの顔は輝いていた。苦労は報われたのである。
電話を切ったあと泣いたにちがいない。本当によくがんばった。チエちゃんが2歳のときからママひとりで育ててきた。ご両親はママが中学1年のころ相次いで亡くなられた。チエちゃんを奪回しようとした姑に、「養育費もなにも要りません。チエだけください」と啖呵を切ったママはチエちゃんの国師なのだろうか。
 
いったんチエちゃんは父親と姑のもとに連れ戻された。ママと実家のお兄さんがある霊能力者にお伺いを立て、「そうしないと向こう(嫁ぎ先は資産家で町の有力者)がおさまらないのだから、いまはお返しなさい。でも何日かたったら必ずあなたのところに帰ってきます」との託宣によるという。結婚するときその霊能力者に「死ぬ気で行きなさい」と諭された経緯がある(非常に苦労するという意)。
 
 霊能力者が去った教会へ人知れずお詣りし、拝殿に額ずいた。そうするほかなかったのかもしれない。一日千秋の日々は過ぎ、チエちゃんは1週間で帰ってきた。2歳になって間もないチエちゃんは毎日毎晩「ママ、ママ」と泣き叫びつづけ、父親も姑も手の施しようがなかったのだ。
 
 チエちゃんが大学に入学したころ、何がきっかけでそうなったか忘れたが、ママとともに3人で生について語り合ったことがある。この世には経験した人しかわからないつらいことがあり、何が一番つらいかは人それぞれとして、「いまつらいことが一番つらいのじゃないかな」と言ったら、ママはうなずいていた。
 
 誕生と死の二つの点の間に横たわる生は短いようで長く、支える何かがなければ生は手に負えない針のむしろである。人は畢竟、経験から本当を得る。知性の母は経験であってみれば、経験は珠玉にまさるのだ。
 
 あれから何年たったろう。この夏、風の便りがチエちゃんの子どもは2歳になったと伝えてきた。
 

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