Sep. 27,2011 Tue    市川猿之助
 
 もう10年以上前に故人となった米子の伯母や母が猿之助のヤマトタケルを絶賛していたのはいつのことだったろう。80年代後半かもしれない。伯母は「安達原の鬼婆、恐や、恐や」とつぶやいていたこともあった。
南座へ徒歩5分とかからない祇園花見小路で華道嵯峨御流を教え、自宅一階を美術家に開放している小西いく子さんも猿之助贔屓のはずと母から聞いたことがある。
 
 母や小西さんが注目していたのはスーパー歌舞伎の猿之助だけではない、猿之助の古怪(奥州安達原や黒塚の老婆・岩手、摂州合邦辻の玉手御前)、踊りのうまさ、妹背山は退屈でといいながらの義太夫狂言解釈の確かさだった。
 
 平凡社刊「歌舞伎事典」は「ケレン(外連)は定格をはずれ、見た目本位の奇抜さをねらった演技や演出をいう」と記している。その一面だけでスーパー歌舞伎を異形と批判する輩もいるが、四世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」の仏壇返し、戸板返し、竹田出雲・三好松洛・並木千柳作「義経千本桜 川連法眼館の場」の高欄渡り、欄間抜けなどの演出が、「歌舞伎の“みせる”という大切な要素を受け持つ」と歌舞伎事典は併記している。
 
 「ヤマトタケル」や「伊達の十役」が客席をどれほど魅了するか。ケレンのおもしろさ、早替りのあざやかさはみにいった者のみが味わえる贅沢であり、猿之助のヤマトタケルが客を酔わせるようすは、客席の水を打ったような静けさと、何度も押し寄せるどよめきによって明らかである。猿之助が残した足跡は大きい。
 
 講演も何度か聴きにいった。熱弁をふるっていた。猿之助は講演の名手でもある。あれは8年前の秋であったろうか、猿之助が脳梗塞に倒れ入院したのは。しかし翌年の春ごろまで私は知らなかった。知ったとき愕然とした。あの崇高なヤマトタケルを二度とみることはできないのか。
 
 ことはそれだけではなかった。狐役者は一に猿之助、二に菊五郎、三四がなくて五に勘三郎。役者のハラに極意があるなら、猿之助の狐は極意そのものといえよう。それほど傑出していた。
 
 義経千本桜・四段目「道行初音旅」(吉野山)の佐藤忠信(狐忠信)の手と素振りはキツネ、勘三郎ほかの役者はネコ。「四の切・川連館」で初音の鼓をもらったときの忠信の嬉しさ愛らしさ。人間でも動物でもない異界の生き物を表現し感動を呼んだ役者は戦後稀有である。
 
 きょう(2011.9.27)、甥の市川亀治郎が来年6月に四代目市川猿之助を襲名すると知った。猿之助のたっての希望という。そして実子・香川照之が九代目市川中車を襲名することも公表された。
中車は八百蔵の俳名で、七代目市川八百蔵の晩年の芸名である。七代目市川中車(1860−1936)は九代目市川團十郎の高弟であり、團十郎の死後、歌舞伎界の重鎮として明治、大正、昭和にわたって大舞台に立った名人で、六代目菊五郎に渇を入れたという伝説の持ち主でもある。
 
 歌舞伎と無縁だった香川照之に中車の名は荷が重すぎる。率直にいって中車襲名そのものが無茶というほかない。この8年、父子ともに後悔の念荒海のごとしであったことは想像に難くない。元夫婦の確執、父子の離反。しかしときとして不幸は芸を鍛える。
 
 俳優の道を歩みはじめた香川照之が父の楽屋を訪ねたとき、猿之助はあたたかくなかったという話はある。「あなたはあなたの道を行けばいい」という意味のことを猿之助が言ったそうだ。たしかに猿之助は自分に厳しく、弟子や裏方にも厳しかったが、一人息子に冷たく言い放ったのか、励ましの言葉であったのか、当人以外の誰が知ろう。
 
 猿之助への憤懣やるかたなさ、名跡を継承することへの妻の認識の甘さが一人息子を歌舞伎から遠ざけたような気もする。不仲や離婚は歌舞伎乖離の理由にならない。人は一代、名跡は途絶えなければ末代であってみれば。
 
 かつて東大合格に喜ぶ母子の写真が週刊紙に載っていた。こういう比較は適切さを欠くとしても、東大入学者数は毎年3150人を下らないが猿之助は数十年間一人のみである。記者会見で「浜さん、恩讐の彼方にありがとう」と猿之助は言っていた。浜木綿子は何と聞いたろう。
 
 来年6月、40代半ばにして初舞台に立つ香川照之の心境を慮って蔭ながら応援したい。
役者の持つべき謙虚さはいまだ十分とはいい難い。が、40年におよぶ父子疎遠の状況下、父親が病に倒れて以降、徐々に新劇の腕を上げてきた不屈の子なのだ。
一子・政明(7歳)も同舞台で猿之助の前名・団子を襲名する。歌舞伎をめざす者が通らねばならぬ門「日舞、浄瑠璃、鳴り物の稽古」に励んでいるらしい。所作ほか舞楽一般は身体に習得させる。それが鉄則である。
 
 亀治郎に猿之助を、香川照之に中車を継がせるということは孫・団子の次なる名跡襲名の布石であることはいうまでもなく、それが猿之助・照之父子、亀治郎の使命でもあり、同時に喜びでもあるだろう。
歌舞伎界とはそういうものでなけれなならない。亀治郎の「わたしにとって猿之助の名は神さまに等しい。これからも(猿之助の名跡を)伝えていきたい、守っていきたい」という言葉が如実に物語っている。
 
スーパー歌舞伎を継承する意思が亀治郎にあるかどうかは不明。猿之助健在のみぎり、ヤマトタケルをみることができてほんとうによかった。一つ家(奥州安達原)の鬼婆、黒塚もみた。甲州土産百両首、南総里見八犬伝、御贔屓繋馬、四天王楓江戸粧、カグヤ、新三国志、伊達の十役もみた。猿之助は不世出の役者である。

前頁 目次 次頁