Sep. 17,2011 Sat    加藤周一 未公開ノート
 
 「人は知らないものを深く愛することができる。しかし愛さないものを深く知ることはできない」といったのはだれであったか。
 
 「羊の歌、読んだ?まだなら貸してあげるよ」といったのはMさんだった。それは海の描写が卓越しているからと「春の雪」をMさんに貸してまもなく三島の自決と相前後する昭和45年(1970)11月である。
 
 きのう(2011.9.16)の毎日新聞夕刊の囲み記事に「加藤周一さんの未公開ノート」という見出しで1937年〜42年4月のノート(大学ノート8冊)を報道陣に公開した。
旧制一高から東京大学医学部時代、17歳〜22歳ごろのもので、遺族が蔵書(約1万9千冊)、直筆原稿、ノート類を寄贈した立命館大学より発表された。未公開ノート8冊はすでに今年7月、立命館大が発見していたようだ。
 
 ノートには未発表のエッセイ、評論、短編小説などざっと200点が書き記されていたというが、1冊目には【芥川龍之介と対比し、菊池寛を豚にたとえ、「豚は龍之介よりも肥えている。そして自殺をする心配はない」などと皮肉を込めた表現が早くも登場する。また太平洋戦争の開戦日には「誰が始めたのか。どうしてなのか」とフランス語で記し、戦争への懐疑を示した。】(毎日新聞夕刊)とある。
 
 近年の未公開ノートで思い出すのは「戦中派不戦日記」に次ぐ山田風太郎(1922−2001)の戦争前中後の未公開日記である。加藤周一(1919−2008)との共通点は、実家が医業を営んでいたこと、二人とも医師でほぼ同世代、博覧強記であり、発想力と探求力、解析力に傑出していたこと、世の中に対して懐疑的であったことだろう。
 
 「薬師寺雑感」(1959)に加藤周一は「鋭い眼が傑作を発見するのではなく、傑作が眼を鋭くするのである」と記している。晩年(1998)には「人生はボードレールの一行にも若かないかもしれない。しかしボードレール全集もまた、愛する女との一夜に若かないだろう」と述べている(「中村真一郎、白井健三郎そして駒場」)。
 
 加藤、中村、白井といえば福永武彦と共に戦時中マチネ・ポエティックに参加したことでも知られている。福永武彦の「死の島」もMさんが貸してくれた。借入中に読了できず、図書館のように期限はないとしても、いったんMさんに返して同書を購入し一気に読んだ。それならもっと早く読めたはずなのに、借りているときはダラダラと。
 
 それから何年経ったろう、独身時代、家内に貸したらサッと読んで、日本航空地上勤務面接試験のさい、面接官の「最近読んだ本のなかで特に印象に残っているものは」という質問に「死の島です」とこたえたそうだ。「どのあたりが印象的でしたか」と食いさがる面接官に家内がどう返答したかは忘れてしまった。
 
 加藤、中村、福永による「1946年・文学的考察」ほかが再録された文学全集の一巻を30年くらい前に木村百代さんからの依頼で貸したけれど、こういう一文を書くと思い出すもので、いまだ貸し出し中である。

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