Mar. 22,2011 Tue    天下の台所
 
 大災害に襲われ避難している人々にとって水道・電気、食料、医薬品、燃料などの供給と交通、通信手段が断たれたときの艱難辛苦は想像を絶する。阪神大震災直後、近場のコンビニに残ったパンを求めて行列をつくる被災者。被災してもいないのに買い占めに走った者はいたし、その種の人間はいまも後を絶たない。
陥没したり曲がったりした道路、倒壊家屋にさえぎられ、車両が殺到し極度の渋滞に陥った宝塚・西宮・伊丹・芦屋・神戸には小型自動二輪や自転車にまじってリヤカーまで飛び出した。
 
 阪神大震災時にはしばらく政治が機能しなかった。政府は自民、社民ほかの寄せ集め。村山首相は何をしたらいいのかわからぬまま時間が過ぎて、官邸に大臣が集まるまでどれだけの時間を要したことか。震災地で最初に動いたのは政府でもなく自治体でもない、民間である。自衛隊も政府や自治体からの要請がなく身動き取れずにいた。しかしその後自民党の対応は早く、国会で震災支援関連の法律を16本通過させた。
 
 そういう経験をへて災害時は要請なしに動けるようになった。にもかかわらず政府のウロウロ、モタモタぶりはどうしたことだろう。政権担当能力をもっているかどうか疑わしい民主党政府、火急時の采配も修飾語の多い講釈が先走ってピリッとしない。東電と共に迷走地図を売りつけるつもりだろうか。
 
 16年前さいわいであったのは大阪が無傷だったことである。大阪は電気も水も食料も病院もガソリンも鉄道、空港も無事、伊丹空港、関空もほぼ通常の運行スケジュールで稼働していた。町は活気にあふれていた。
しかし、いつもなら安穏な日々にひたっている人たちがめまぐるしく動いていた。大阪方面からスクーターで飲料水を運んでいる人がいた。パン、おにぎり、毛布を乗せてリヤカーや大八車をひく人がいた。それも一度ではなく何度か往復した。目的は被災者支援である。
 
 当時、家内の実家は大阪市内にあった。実家付近のスーパーマーケットには食料があふれていた。買い占めする人はいなかった。夜の店内は暗いところから避難してきた人間には異様なほど明るくみえた。街灯は町のすみずみを照らしていた。小学6年のころだったろうか、江戸時代、大坂は天下の台所といわれていたと社会科の授業で学んだ。だがそれは大坂の歴史的役割という理解にすぎず、実感にはほど遠かった。大震災後、天下の台所の意味をはじめて実感した。
 
 大阪の物流がストップしていたら被災者は途方に暮れ、神戸・西宮ほかの復旧もおくれていた。大阪から尼崎、西宮、芦屋をへて神戸に至る国道43号線、国道2号線が寸断され、まともに走れる道も大渋滞、閉店のガソリンスタンドもあったのに、リヤカー、大八車はどこ吹く風、余震も気にせず駆けつけ、テント村・被災者の支えとなったのだ。
人を救おうとしたことで支援者自身も救われることを体感した瞬間である。ともあれ、いざというとき即座に反応し、おせっかいにもみえる関西人気質により被災地は一息つけたように思う。
 
 できることをやるしかない。取り急ぎ貧者の一投で義援金1万円を郵便局から送った。先日、奈良の古寺、京都の神社に参詣し北北東に向かって手を合わせたが、毎日祈ってもものたりない。
今後、旅行したつもりで数万円、外食したつもりで数千円、電話で長話したつもり、孫はいないけれど孫にオモチャを買ったつもりで数千円の義援金を送りたい。それならできる。気は心という。いまできることはそれくらいしかない。

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