Mar. 13,2011 Sun    海が憎い
 
 16年前、生ある間あのような惨状を国内で目にすることはないだろうと思った。それは希望的観測から発せられるものでなく、祈りにも似た何かからわき起こってくる思いだった。
震災数日後、JR六甲道駅(神戸市灘区)近くのマンション、阪急電鉄仁川駅(西宮市仁川町)近くに住む家内の友人二人の安否を尋ねて20qをとぼとぼ歩いた。徒歩のほかに交通手段は遮断されていた。自宅付近の道路は倒壊した電柱や家屋、道路自体の隆起・陥没で通行止めになっていたし、鉄道は部分的に運行していたが概ね不通となっていた。
 
 家内の友は、西宮仁川町の人は幸いにも家屋のダメージがすくなく、神戸六甲道の人は、あとでわかったことだが避難所にいた。しかし、仁川町北側の仁川百合野町の斜面にあった新興住宅地は地すべりで全滅、助かった人はいなかった。仁川百合野町と、六甲道までの国道2号線沿いの惨状は言葉にいいあらわせられない。瓦礫のなかにハブラシとこども用のマグカップ、タオルの切れはしが散乱していたとしかいいようはない。
 
 いまもはっきりおぼえているのは、握ったこぶしがふるえて開けず、神はいないという思いがこみあげ、血が逆流するような感覚であったことだ。実感とはそういうものである。そういう思いでいながら、こういうときこそ落ち着いていなければならないと誰かがささやいた。自分の内なる声とも思えたが、あるいはそれがいないと思った方の声であったろうか。
 
 被災して家族や友人、家を失った人たちの気持ちは当事者以外に説明できない。いや、被災者自身も説明不能であるだろう。説明できるとしたら、途方もない時間が経過したあとのことだ。想像と体験の隔たりはあまりにも大きい。
被災していない者に較べると被災者には失ったがゆえに多くのものが残る。耐えがたい苦痛、天に聞き届けられない慟哭、生涯贖われることのない喪失感。いざというとき私たちはなんと無力なことか。そのような状況下、自衛隊ヘリコプターの飛来は大天使ミカエルのつばさにみえたかもしれない。
 
 東北で被災された方が「海が憎い」といったそうだ。1995年冬、阪神大震災で九死に一生をえた罹災者のひとりとして万感胸にせまる。海から遠く離れてもその思いは離れないだろう。畢竟、私たちはできることをやるしかない。奇跡的に助かった人のなかの有志、可能であるなら自らの体験を伝えてもらいたい。体験者の話は夜道を照らす星あかりとなるのだ。被災者の強靱な精神力と支援者の真摯な姿勢を信じている。

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