Jul. 13,2010 Tue    ザ・ロード
 
 小学生から中学生、高校生と進むにしたがって徐々にテレビ、給湯器、冷蔵庫、エアコンなどが新たに(買い換えではなく)増えていったことへの驚きと満足感にひたった。一杯のカレーライスに喜んだ。生まれたとき家に多くのものがそろっている環境が驚きや満足感を阻む。と同時に喜びを喪失させる。単に買い換えるだけの楽しみと初めて買う喜びは別物である。
若さ=未熟であるかどうかはともかく、暖衣飽食に慣れれば慣れるほど、未熟であればあるほど人は感謝の気持ちを忘れ、未熟であるという意識さえどこかに置き忘れてしまう。
 
 強いか弱いかはそれほど重要ではない。そんなことは他者に決めさせておけばいい。強いから理解者、協力者がいるというわけのものでもないであろうし、弱いからいないというものでもないだろう。自分自身にエクスキューズしながらの人生も疲れる。が、習性となっているならしかたあるまい。
エクスキューズしない生き方は一見スマートにみえることもある。しかしそれは外見だけで、じっさいはただのスリムにすぎない。還暦を過ぎ、スローダウンもスピードアップも到達時間に大差なく、どのみち渋滞のない道はないとして、余分なものを背負い込まず生活をスリム化すると身も軽い。
 
 最近衝撃的な情報を得た。縁あって4年間同じ釜のメシを食べたことのある人がかなり以前、不慮の死を遂げていたという。話の出所はわがまま育ちのお嬢さんである。そんな話は黙っていればいいものを、というより、いままで黙っていたなら黙りとおせばいいものを、なにをいまさら墓を掘り返すのか。
死は再会や再起のチャンスを永遠に奪う。話し手に失望しながらも同期のよしみは捨てきれないだけに、その場であからさまに怒りはしないだろうけれど、お嬢さんは何を考えているのか。若いころは「ありがとう」の言葉を発したら損するとでも思っていたのか、人に感謝しない礼儀知らずのわがままな女性だったが、中年過ぎて落ち着いたといっても、ヒゲを引っぱれば元の顔があらわれるということなのだろう。
 
 映画「The Road」について、原作者のすご腕について書こうとしたはずなのに、横道にそれて全体がバラバラな文となった。評にかからない人のことを書くこと自体どうかしているとも思うし、この種の文章は人を愉快にすることもないので中断する。
映画にでてきた善き人か善き人でないかというような私たちの本質にかかわる問題は、加齢や状況に左右されるものではなく、極限状態においても試されるし、何気ないふつうの状態においても試され、体験に裏打ちされない想像は、見慣れぬ光景と見慣れた光景を、仮想現実と現実を綯いまぜにする、とでもいっておこう。

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