Dec. 28,2005 Wed    一家
 
 古美研庭園班OBの私は、最初から庭園班に在籍したわけではない。最初は建築班に入った。その理由たるやまことにいいかげんで、各班の説明会(いわゆるオリエンテーションです)のとき、建築班のチーフが温厚で思いやりがあり、柔軟性に富む人だと直感で分かったから建築班に入ったのだ。その人が川崎さんである。
 
 川崎さんは自由磊落を絵に描いたような人で、先輩風を吹かせたことはただの一度もなく、同期の仲間に話すような姿勢で私に接してくださった。川崎さんの一年下に伊藤さんという方がいらしたが、伊藤さんも川崎さん同様、温厚で篤実、スマートな方だった。結局私は、研究したいことやテーマは二の次で、どういう先輩がそこにいるかを班選びの決め手としたのである。
そういったいいかげんさは決してその時で終わることがなく、冬休みの最中、どういうわけか庭園班に入りたくなって川崎さんに相談したら、「君がそう思うならそうしたほうがいいと思う。建築から庭園に移ったからといっても、君は君なのだから」とおっしゃった。
 
 私はその時、自分のいいかげんさを棚に上げて、これが自分の望む早稲田なんだ、川崎さんのような先輩のいるのが早稲田の美点なのだと思った。だが、チーフの内諾を得ても自分の身勝手を直ちに実行できないまま愚図々々していた。建築班から庭園班に移った時期をいまも思い出せない。昭和44年の春休みだったか、二年生になってからだったのか。
いまにして思えば庭園班に移ったことが大正解であったわけで、あの時そう決心して川崎さんに申し出たのは虫の知らせだったのかもしれない。快諾してくださった川崎さんに対して感謝している。
 
 庭園班はいま思っても不思議な班だった。他班(絵画班は庭園班との類似点が多かった)と較べるとどこか超然としているというか、不羈磊落で、仲間意識を表面に出すこともなく、毅然としたなかに独特の軽妙洒脱の気風をそなえていた。
三十数年ぶりの再会について同期HKは、「京都に集まった面々は一家という感じがする」といった。一家であるがゆえに仲間意識が稀薄なのだ。一家のような親しい間柄ともなれば仲間意識も帰属意識もあまり感じない。ふだん、心臓や肝臓がどこにあるか意識しないように。一家であるなら仲間であるのは当たり前で、声高に叫ばずとも連絡するだけで集まるのである。現に私たちがそうだった。
 
 そういう好ましい環境づくりに貢献寄与したのが庭園班歴代のチーフと、庭園班の面々である。類は友を呼ぶ。私は、庭園班の仲間に川崎さんをみた。先輩といえども、美なるものを鑑賞するにあたって、自己の固定観念を後輩に押しつけず、そしてまた、生き方・考え方においても、相手の自由を尊重する人間の姿をみたのだ。
庭であれ、彫刻や建築であれ、対象物の見方、鑑賞方法は本来、その人の自由にゆだねられるべきものであってみれば、「○○の見方」のごとき入門書や概説書、あるいは、専門書の受け売りを後輩に押しつけるのはもってのほかである。作者がどのような意図でつくったかより、対象物をみた者がどう感じるかのほうが大切なのだと思う。
 
 当時、絵画班のチーフだった尾久彰三さんもそういう点では不羈磊落、自由を尊重する人であった。尾久(おぎゅう)さんの民芸と絵画への熱意・嘱望は、伯父さんが富山市・民芸館長であったことと無関係ではないようにも思われる。川崎さんや庭園班の歴代チーフ同様、後輩たちの自主性を重んじた尾久さんは、趣味が生業となって「日本民藝館」主任学芸員となられた。

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