Nov. 24,2009 Tue    学生会館
 
 同好会に所属し、壁や扉で仕切られた部室を持たない部員は学生会館を部室代わりに使い、学館と呼んでいた。部室の体をなさないオープンスペースで、学館1F入ってすぐに長椅子が二つ向かい合わせに置いてあり、そこを古美研が陣取っていた。たいがいは講義の合間に一部の2,3年生がたむろし、よくもわるくも社交倶楽部の様相を呈しており、情報交換の場でもあり、待ち合わせの場でもあった。
幸か不幸か私は2年のとき(1969−70年)、古美術研究会の渉外幹事と関東史蹟古美術連盟の幹事を兼任していたこともあり、学館にいることが多かった。それで、市原悦子でもないのに見たくもない光景を目撃した。学館は男女が交差するドラマの現場でもあったのだ。
 
 そういう見方に否定的というか、「古美研の聖なる殿堂=学館」を「男女の交差する現場」とはけしからん、ふざけるなと怒るヤボテンもいないわけのものでもないだろうが、わずか数年のあいだに私の同期彫刻班で3カップル、庭園班の後輩でも3カップルが結婚へゴールインという大漁を思えば、怒ってばかりもいられまい。
ほかにも建築班、石彫班などの班はあった。両班が彫刻班、庭園班に較べてガンバりようが足りなかったのかというと‥いかんせん女性がいなかった。ま、いたにはいたが、ひじょうに少なかったし、入会してまもなく退会したからいないも同然、これでは火花も散らず、不漁というほかありません。そうした状況の建築・石彫の両班のあいだで奇怪なことに火花が飛び散ったこともある。
 
 1969〜1971年のある季節、建築班の先輩が血相を変えて学館に飛び込んできた。何事かが起きたのは間違いなく、その男性は長椅子の置かれた場所、さらに学館1F全体を血走った目で追う。長椅子には私とKY君、MY君しかおらず、さいわい両人は背中向きに座っていたので、その先輩の狼狽したようすをうかがい知ることはできなかった。
表情が変化しないよう、目が動かないよう神経を配り、右目でKY&MY君を、左目で先輩の動きを見(^_-) 両人が振り向かぬよう口からでまかせのゴマ話をまいた。先輩は2分ほどで学館を去った。やれやれと思っていたら、その数分後、後輩(セレブと噂の高い石彫班の女性)が眉間に一本シワを寄せ、険しい表情であらわれた。後輩女性のようすだけみればよくわからない(KY&MY君もわからなかったはず)ことも双方をみればわかる。以前も以降も噂にさえならなかった二人の交差点は学館なのだ。
 
 何が彼らを突き動かし、そのような行動をとらせたのだろう。出会いと別れの狭間には人知のおよばぬ力がはたらき、多くの哀歓が横たわっている。後になって説明できることもあるが、説明できないこともある。先輩が彼女に求めたものと、彼女のそれとは異なっていたのかもしれない。あのときの先輩には、清潔感と都会的センスにあふれた彼に似つかわしくない無精ひげが生え、いいようのない喪失感がただよっていた。
 
 
 お昼時、KY、MY君と学館で待ち合わせ、ラーメンのメルシ、洋食の高田牧舎、名前は忘れたが正門と反対の安部球場(1987年閉鎖)側の食堂などで共に昼食をとった。KY君は、彼らより40円か50円高いものを私が食べていたとさるところの掲示板に記した。すっかり忘れていた私に記憶がよみがえった。
昼食を共にした回数はKY君&MY君が図抜けて多かった。2008年5月、京都の料理屋で集まったおり(KY君は身内の葬祭のため欠席)、近況でもないのに昼食の一件を報告した。「へえ〜、M(Y)はIさん(私)とそんなつきあいがあったのか。ぜんぜん知らなかった。」とA君がいい、ほかの仲間も意外な面持ちだった。
 
 彫刻班THさんが新調の洋服を着て学館に入って来たとき、THさんの心底をみすかすかのごとく、KY君が「知らんふりしよう」とMY君を促し、ふたりとも明後日の方向を見た。相手が相手(わがまま育ちのお嬢さん)であるからそのような態度にでたのだ。学館はKY&MY君の遊び場でもあった。
 わがまま。そういわれて思い当たる女性は少なくないだろう。その数は自らをわがままと思っていない女性とほぼ同数と思われる。自己中心とかわがままの度合いは他者が決めるべきものだ。自己採点はとかく自分に甘い点をつける。
 
 歳々年々人不同。古美研を去った者にとって学館は「ともしび」であったような気もする。現存しないことでかえって学館につどった者をほのかに照らす役目を担っているのだろう。わが家とはいえなくとも、朋とすごした思い出の館であることは確かだ。

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