Nov. 08,2009 Sun    東京キッド
 
 「H(K)さんから聞いたよ。女性徒にそっくりなんだってね。」
右足のかかとを少し浮かせて学館に立ったMさんは独特のイタズラっぽい目でそう言った。1970年は安保闘争で大荒れに荒れた年だったが、10月初旬は正門にバリケードもなく、嵐の前の静けさである。
簡単にバラさないでよ、まいったなぁと思う先からHKにお礼を言いたい気もした。(太宰治の「女性徒」)
 
 口がすべるのはHKだけではなかった。私が太宰のほかに三島も読んでいるのはHHも知っていたし、HHも「禁色」を読んでいたから、話のついでに口もすべったろう。Mさんは名の知れた作中人物のごとく話題に上るタイプだ。HK、HH、私の3人はどこか超然としていたから、学生時代は特段話題にすることもなかったが、Mさんのシンパは少なからずいて、今も根強く彼女を支持し、交流が続いているようである。
 
 太宰と三島は二卵性双生児のようだというべきところをうっかり一卵性と言ったらば、すかさず「二卵性じゃないの」と突っ込まれ、「おお、そうだった、タマゴは二つだ」とおどけて応えたら苦笑されたような記憶がある。それはともかく、「春の雪」を借りたいというので貸した。
Mさんに貸し出し中、三島は割腹自殺した。茫然自失した私はいうべき言葉がなかった。心にあること、ないこと、どちらをいってもわざとらしく不自然のように思えた。しばらくしてMさんから手紙が届いた。末尾に「ミスターエアーさま」とあり、「ふだんはあるのかどうか意識しないのに、なくなったら息ができない」と記されていた。
 
 殺し文句はかくあるべし。一撃で相手はノックアウトされる。あのときの私は羽衣を手に入れて有頂天の漁師だった。三島の死が思い切りのいい彼女をさらに大胆にしたのかもしれないが、有頂天漁師は往々にして自分を見失う。
前年(1969)春、サクラ満開の千鳥ヶ淵へボート遊びにさそったときのMさんとは別人であった。ボートに乗るまえから、いまにも殴りかかりそうなほど不機嫌で、ほとんど口もきかずブスッとしていた。仏頂面の理由もわからないまま、お茶も飲まず別れた。それが最初で最後のデートになると思った。
 
 口の代わりに筆がすべる。筆は口よりすべりやすい。30年前ならこわれたテープレコーダー、もしくは噴飯物といわれるところだが、なに、世の中雑多な人間の寄せ集めだ、雑多な一人の筆がすべっても受容する者はいるだろう。
私たちが別れた後、間もなくMさんは結婚し、子供が生まれ、そして二人目の子供も生まれた。情報は、早稲田鶴巻町に駐車していた車に乗るMさんと私を目撃したMY君から入ってきた。MY君のほかにMさんとの交際を知る者はいなかった。古美研随一の情報通。人の心の在りようを読めるMY君は、労組にかかわっていた期間の長かったこと、経験豊富なこともあって円熟味を増したが、東京キッドの片鱗がいまもみられるのである。
 
       粋で おしゃれで ほがらかで
      
       右のポッケにゃ夢がある 左のポッケにゃチューインガム
 
 
 三島由紀夫がいなくなって、昭和らしい昭和‥‥「負けて勝つ」(伝えるべき何かを残した者が真の勝者というような考え方)、「死して生きる」といった言葉に耀きや生命力が宿った時代‥‥も終わったのではなかったろうか。出身地は異なっても、青春を過ごした町・東京では、HK、HH、Mさん、MY君はある意味東京キッドであったと思う。三島でさえ東京特殊キッド、「粋で おしゃれで ほがらかで」なのだ。
時はめぐり、人もめぐり、とどまることはない。だが懐かしさはとどまり、風化しない。

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