Dec. 02,2009 Wed    ゼロの焦点
 
 妙な動機による映画鑑賞だった。友人が先にみて予想以上に感銘を受けたこと、プラターズの歌「オンリーユー」のこと、出演女優の一人が或るシーンで阿修羅、般若のように見えたという感想を読み、みようと思った。
 
 友人の体験を追体験している気分だった。能登金剛の厳しい冬。狂人の額のように低くたれこめた雪雲。鈍色の荒々しい海。海に向かって屹立しているのに、立っている人間に向かって叫んでいる絶壁は一切の愛を拒絶するかのようだ。
過去を消したい女、過去と訣別し未来に生きたい男、現在を生きようとする女が渾然一体となった「ゼロの焦点」は野村芳太郎の「砂の器」を髣髴とさせる。
 
 「砂の器」の元警察官(緒形拳)に似た役を西島秀俊、和賀英良(加藤剛)の愛人(島田陽子)より切ない女に木村多江、和賀英良を想わせるのは中谷美紀、被害者の妻で事件を解明する役(「砂の器」では刑事・丹波哲郎が解明)に広末涼子。広末涼子は仕どころの少ない役にもかかわらずハラがあった。
 
 善の力が悪の力に凌駕されることのなんと多いことか。悪意が充満したとき人は善意を忘れる。そういうとき悪に打ち勝つのは善意ではなく悪を寄せつけない強い意志である。そういうハラを広末涼子は表現した。今後が楽しみな女優である。
 
 恩を受けた者がなぜ恩人を殺めたのか。松本清張が描こうとしたのは、行き違い、懊悩、執着心が大罪を生む、そのどうしようもない遣る瀬なさと無常観である。
「砂の器」の父子がお遍路姿に身を変え、家の軒先をたずねては食べものをもらい、野宿し、悪童に石を投げられ、山中、田の畦道、砂浜をあてどなく歩き続ける。一切のセリフはなく、音楽(スクリャービンの「エチュード嬰ハ短調 作品2−1」 同「エチュード嬰ニ短調 作品8−12」を芥川也寸志が編曲)だけが流れる風景のえもいわれぬ美しさ。
 
 日本海に面した山陰地方のどこかの海辺。ふりしきる雪のなかをひたすら歩く巡礼父子。どうしてこんなに理不尽なのか。そう思いつつ映像と音楽にひきつけられてゆく。あれは自分自身の心の風景なのだ。刑事が瀬戸内海のハンセン病隔離施設に被疑者の父(加藤嘉)を訪ねたとき、わが子であるにもかかわらず父は、「そんな人は知らない」と言う。お遍路のシーンで泣かされた涙がやっと涸きはじめた矢先、涙があふれてきた。
 
 佐久間良子の「さすらいの旅路」(テレビ)のときもそうだった。生き別れの子は長じて弁護士となる。母は殺人の刑事被告人として法廷に立つ。国選弁護人(中島久之)はわが子である。だが母は知らないと言い放つ。
「ゼロの焦点」に登場する女三人はそれぞれが阿修羅である。生きることにおいて阿修羅を強いられるがごとく、興福寺の阿修羅だけが一つの首に三つの顔であるがごとく。風景も人も、古き美しきかなしき昭和の忘れものだ。感動は忘れものを探しあてたときにやって来る。スクリーンの映像と心の映像が一致したときにやって来る。
 
 風花の金沢、羽咋、能登金剛。報われぬ愛、しかしそれでも惜しまぬ愛は、映像化された夜の深さ、立体感、絵画的な美に縁取られ、人間であることがなぜこうもかなしいのかを問いかける。
「ゼロの焦点」と「砂の器」とを映画の出来ということで比較すると、「砂の器」のほうが「人間であることがなぜこうもかなしいのか」を深く感じさせる。それは端的に演者に依る。ハラの足りない中谷美紀ではとうていムリ。ここという見せ場で心が痛くならないのだ。それにしても「砂の器」は不朽の名作である。
 
         ※興福寺以外の阿修羅像は三つの首に三つの顔を持つ(というのが一般的)※

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