Oct. 21,2007 Sun    共楽寸時
 
 ある風景をながめて時を共有する。そういうことのために生かされてきたのかもしれないと思うことがある。
 
 ことの顛末をおもしろおかしく書くことは感動を書きあらわすことよりたやすいだろう。稲刈りも終わりに近づいた明日香を、刈り穂のかおりと野焼きがないまぜになった芳醇なにおいを、感動そのままにあらわすことの難しさ。
時間を共有するとは畢竟、別れを共有することなのだろうか。年をかさねることは別れをかさねるということであり、感動は別れを漠然と感じているがゆえに得られるものなのだろうか。遊び仲間と興じた子供が日暮れに漠然と感じた、あのころの気持そのままに、昔も今も言葉に出せないことに変わりはないのだ。
 
 私たちは風景をみると同時に風景の奥に在る別の風景をみる。そうでなければどうして無窮動がむくわれよう。感動は眼前の風景と心の風景とが一致した瞬間に訪れる。実りの秋、そして私たちの収穫ともいうべき追憶と発見という名の果実。
明日香の小高い山々と田園風景は深い喜びをもたらしてくれる。それらの風景は世界遺産ではないけれど、世界遺産にも勝る自分遺産なのである。
 
 何も起きなかった土地には存在しないざわめき。濃密な過去の蓄積。ふだんは眠っている感受性の喚起。遠くの野焼きのにおいが風にはこばれ、近くの刈り穂のかおりと互いにその調べをそこなわずまじり合い、耀き、私たちの感性をためそうとする。そこに身をゆだねることの喜び。明日香は、保存されているだけでも十分なのに、みる者を照らす崇高な月影のように生きつづけている。
 
 
 明日香を歩くならポット入りのコーヒーよりむしろ、お昼を食べそこねた人への手弁当がいい。両方あればさらなり。わかっていたにもかかわらず、用意しなかったことへの自省の念。
別れて空虚な思いが残ったとしても、秋の日を共にすごせたことに感謝。ありがとう。
 


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