Mar. 12,2007 Mon    不退寺のレンギョウ

 
 春を告げる花の色はなぜか黄色が多い。タンポポ、菜の花、トサミズキなど、早春の光に輝いて風景をいっそう明るくする。英国ガーデニング愛好家の間に「春はレンギョウではじまり、秋はキクで終わる」という常套句があるそうだ。
 
 梅の紅白、ツバキの緋色や桃色に主役の座をさらわれているレンギョウの黄色も、梅やツバキをみなれた目にはかえって新鮮に映ることがある。とはいっても、我が世の春とばかりに赤くなっているツバキの群生に較べると、この時期のレンギョウはいかにも脇役、存在感の稀薄さはいかんともしがたい。
 
 「花の風物誌」(釜江正巳著)によるとレンギョウは中国中部の原産で、19世紀後半オランダに輸入された。一方、英国の著名な園芸家R・フォーチュンが王立園芸協会の命を受け、1843〜61年にわたり中国に4回派遣され、英国の気候風土に合った有用植物を輸入、特に称賛をうけたレンギョウはヨーロッパの代表的花木として春を彩っている。
 
 赤や薄紅色の花にも魅せられるが、黄色にはそれらの色にはない何かがあって惹きつけられる。ずいぶん以前、北野天満宮ではじめて黄梅をみたとき、その色といい香りといい、紅梅にない色気を感じた。白梅のように凜としてもいないし、薄紅色の梅のようにはんなりともしていない黄梅に感じたあの色気は何だったのだろう。
 
 2007年3月7日午前、不退寺を拝観して想ったのはしかしまた別のことだった。それは特に不退寺でもレンギョウでもなく、ほかの寺でも花でもよかった。
だが、不退寺に咲く侘助(ツバキ)のいいようもない桃色、逆光に照りかえる馬酔木の白をみるにつけ、レンギョウの黄色はめだたないのである。めだたない生を過ごし、めだたない終わりを告げるもののごとく。
 
 一週間もすれば花も増え、人目につくようになるだろう。不退寺という古寺のレンギョウだから目をひくということもあるかもしれない。しかし花はまだいい、不退寺に咲かなくてもレンギョウはレンギョウである。
 
 会社を退き、肩書きのなくなった人間はさぞさみしいだろう。サラリーマン生活を35年の長きにわたって続け、多くのことを積み重ね、同時に犠牲にしてきた人間が定年を迎えたとき、その先いったい何をよりどころとするのだろう。肩の荷がおりて自由気ままな日々を謳歌するのだろうか。そんなに長い会社勤めをした経験のない私にはわからない。
 
 私はある時期、自由に生きることを余儀なくされたので、しかたなくそのように生きてきた。したがって、そういう種類の人間が何をどう考えているかはわかる。備え足りず憂いありの人生はわかりやすいのだ。
そのようなことを考えるさいいつも想うのは、七十歳をすぎて佐渡に流された世阿弥の晩年である。秘すれば花と高邁な精神を説くような状況でなかったろうことは容易に想像できる。その世阿弥が、能を舞えなくなってなお烈々と能の道を説いたのは何故か。
 
 花はほとんど無意味、無内容である。にもかかわらず花は生きている。世阿弥が花を秘していなければ齢八十歳まで孤高と矜持を保つこともかなわなかったであろう。花は象徴でも観念でもなく、世阿弥の体験そのもの、あるいは体験から会得した何かであるだろう。しかし一方で花こそが自由の象徴であり、精神と行動の指針なのだ。佐渡に流されたがゆえに世阿弥はいっそう高邁な精神を保持せねばならなかったのだ。
 
 不退寺でもない、レンギョウでもない、何の花か判別できなくなったとき初めて、その人固有の人間像が浮かび上がる。生き方はさながら花に、自然に似るのである。将来、人生の幕が降ろされようとするとき、心を満たしてくれるかもしれないのは花なのである。
 
 
※世阿弥は最晩年、足利義教の横死によって不思議(世阿弥自身の言葉)にも許されて京に帰ったが、その正確な年は定かではない。嘉吉3年(1443)8月8日、飛鳥に近い越智の庄で影の消えるがごとく死んだということしかわかっていない。
「風姿花伝」は長く観世家に秘められ、世に出たのは明治42年、史家吉田東吾によってであり、世阿弥の死後400年以上その存在を知る人は観世家のほかにいなかった。世阿弥の命日が確定したのは昭和30年代である。※

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