Nov. 05,2006 Sun    時の傷
 
 十数年前40代のころ、身近な知り合いの数人から決まって同じことを尋ねられた。曰く人生をやり直したいと思ったことはありませんか、やり直すとすればいつからがいいですか。私は決まって応えなかった。やり直したいと思っているのはあなただろう。答えはあなたが持っている。他人の思惑を尋ねてみたとて何ほどのことがあろう。
 
 生き方は固有のものであって人それぞれだが、この世に用があって生まれてくる人間などいるのだろうか。生きているうちにその人固有の何かが形づくられてゆくにちがいなく、用ができるとすればそれから後のことだろう。生きる意味を求めることも自らに課すことも必要あるまい、意味はその時々で変わる、そのとき最も必要なものが最も大切なのであってみれば。
 
 永年それが変化しないなら、それはそれでよい。生きる意味というのは自分との約束事である。約束しなかったからといってだれが責めよう。実直、真摯に生きて自責の念をもつのは生きる意味を追求しすぎるからだ。
 
 愛され愛すこと、それで十分ではないか。生きるとはそういうことであり、それが意味のあることかどうか自問してわからないなら、それでよい。愛することに意味があるから愛すのではないだろう。この世は刹那である。刹那と認めるのは口惜しいがほんとうのことである。時が来たればだれにでもわかることだ。
 
 私が同窓会の出欠を決めるのは、孤独を深めるような集まりになるかどうかである。孤独をさらに深めるであろう集まりに好んで出席するほど私は若くはない。若さの問題か否かはともかくとしても、ありていにいって、残された時間をいとおしみたいと思うだけである。
 
 対人関係も同様で、孤独を深めるような相手とのおつきあいは避けている。そこが若かったころと異なる。好きになればなるほど孤独をかこち、見たくもない孤独の深淵を覗いてなお思いを寄せるのは若さゆえである。
 
 ある年齢に達すると時間に目覚める。時間が無限にあるわけのものでないと実感すると、孤独の淵をさまようことに疲れを感じるようになる。老いとは時間に目覚めることなのだ。
あえて思い直すまでもなく、いままでいったいどれほど多くの時間を空費してきたことか。近年は記憶力が衰えてきたからいいようなものの、何かの間違いで記憶力抜群であったなら、無為に過ごした時間の膨大さに怖ろしくなり、毎夜身をよじって泣きわめいているかもしれない。
 
 逆説的に聞こえるかもしれないが、この世に冷徹と傲慢、自負と自尊の在るかぎり、無為の時間を背負い込むこととなる。無為に過ごした時間のなかで自己を発見できたならそれでよい。強迫観念と昵懇になるのも良し悪しである。強迫観念と蜜月を共にしたいというなら話は別だが。
 
  
 人生をやり直したいと思ったことはない。いつどこに戻りたいと思ったこともない。若いころ、といってもほんの二十年前までは欠乏感にさいなまれたこともあった。これで十分と感じたことはほとんどなかった。たぶんそれは、先の人生まだ長い、これで十分とは面目ない、十分と信じられるほど生きていない、そう思っていたからである。欠乏感はよそ見しているあいだに強迫観念に化ける。
 
 十分満足のゆく人生ではなかったけれど、これからも十分得心のゆく人生を過ごせるとも思わないけれど、感謝の気持ちを失ってはいないし、時を傷めたいとも思わない。
人生をやり直し、自分が傷を負わないことによって何が変化するのだろう。人を傷つけ、自分も傷つき、そういう生き方を変えることができたとしても、あの頃のように、そして今のように人を愛しただろうか、あるいは愛されただろうか、そのことに感謝しただろうか。
 
 やり直すことで人生に若干の修正はできるかもしれない。しかしそうすることで時に傷ができるだろう。自分自身の傷をいやすのは至難ではないように思えるが、時にできた傷を修復するのは至難である。私自身もふくむ様々な人間の人生に好ましくない変化をもたらすようなことであれば拒むしかない。
 
 抗いがたいかそうでないかはまた別のことである。時は常に私たちを見ている。私たちが時を見るのはずいぶんと時が経ってからなのだ。戻りたいとは思わないけれど、累次勝手に戻されているのではと感じることはある。
意識下のささやかな願望を時が叶えているのであろうか、どうなのだろう、自問しても答えは見つからない。耳元で、答えを出す気もないくせにとだれかがささやいている。

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