Jul. 23,2006 Sun    極楽浄土
 
 あれからもう33年の時が過ぎていったろうか。
東京下落合の賃貸マンションを引き払ったときに捨てたと思いこんでいたノートが、死者がよみがえったかのごとく、今日(7月23日)忽然とあらわれた。信じられなかった。愕然とした。
 
 そのノートは、長い間書庫に眠っていた「東西文化交流史」(松田壽男博士古稀記念出版委員会編=雄山閣刊)から出てきたのである。故松田壽男博士は当時の早稲田大学名誉教授、同書の執筆者は、前嶋信次、羽田明、佐口透、山田信夫、櫻井清彦、古賀登、長澤和俊、池田百合子、内藤みどり、佐々木淑子など錚々たる顔ぶれが揃っている。
 
 「東西文化交流史」は昭和50年5月10日初版で、私が同書を購入したのは同年9月8日(と同書の裏表紙に記されていた)、むろん初版ものである。阪神大震災のあと、家中の書物はすべて整理したが、箱カバーの中身を確かめず、そのまま新しい書庫にしまって11年が経過していた。
 
 ノートには或る女性が某班チーフに立候補したときの、彫刻班KT、石彫班OK、庭園班HJなどの感想や、そのほか、いまとなってはだれも憶えていないと思われることどもが走り書きされてあった。それだけではない、ノートには或る女性の書いた文章の写し書きも記されていた。日付は1971年10月17日となっている。おそらく写し書きしたのがその日なのだろう。
 
 「極楽浄土」と題されたそれは習作というよりむしろ秀作ともいうべき逸品。惜しむらくは、文章の終わり近くで若さが出たことである。当時の女性の年齢(この一文を記したのは1969年1〜4月かもしれない。であれば19歳だ)を思えば、若さ云々という評が適しているかどうか。
女性の祖母(福岡県在住)が逝去したことがきっかけで書き記された一文は、祖母の追懐にとどまらず自らの生き方にかかわって将来の姿を暗示している。将来とは2001年11月以降である。すなわち女性は未来を予感していたのである。
 
 ともあれ、だれも保存していないであろう‥おそらく本人でさえ‥小文のコピーを原文のままここに掲げる。
 
          極楽浄土
 
 あたしがお経をよみだしたのは、初めの子供が死んだ時だった。あたしが生んだ子供のうちで一番美しい子だった。三人目の娘が乳離れしないうちに、夫は急死した。
別れは不意にやって来る。夫の死が子供のあとにあっても、あたしの信仰は他人の死によって始まることはなかっただろう。あたしのものを失った時に始まったのだ。あたしのものが息絶えた時に、あたしの生の悲しみは極まって、そして次第に深く胸の底に積もっていった。
 
 死が近い。このあたしが選んだのだ。三日前、末の娘と車に乗ったとたんに気分が悪くなった。無理やり医者に連れてかれたが、あたしは、周囲の注意を聞こうとしなかった。「何でもありませんよ」と言い張ったものだ。
あたしにはわかっていた。このひと月続いた頭痛は確かに死の前ぶれであった。血管が脆うくなって、なめらかに流れるなんてことはなくなった。頭だけではない、からだのどこにも生き続ける気持が流れなくなってしまった。
 
 あたしはいろんな人間を見てきた。裏切られたこともあったけれど、もう許している。許し切れないのは子供たちだけである。でも、そんなことを言ったって、何にもならないだろう、あたしが死を選んだ今となっては。
今なら手術が可能だと知っている。十日ほど前に年寄仲間と山の温泉宿へ出かけた。前にはひとり旅が好きで、思いたつとどこへでも行ったものだ。このごろは、誘われれば行くというふうになっていた。
 
 その温泉宿は谷あいにあって、夜になると渓流の響きが伝わってきた。上流のほうにも昔からの湯治場がある。朝、目覚めると裏山に霧が流れていた。
五月の陽を遮って、木立の緑を乳白色のむらでおおっていた。それでも、山の、空をささえる稜線はしっかりと引かれていた。秋の空よりはひらたく薄い青さが輝きだすころ霧は晴れた。
 
 ところどころの松の枝ぶりが目に入ってきた。風が吹くと梢が揺れて、木の葉がチラチラと音をたてながら日に反射する。無数の色が踊り出す。朱、黄、茶、そして藍色さえも混じっている。そのひとつひとつの色にあたしは死を見た。あたしのそばを行き過ぎていったいくつもの死が、そこで戯れていた。
 
 さみしいチラチラという音が、あたしの首の付け根のすぐ下のところに共鳴して、寂寞の感を催させた。そして平和な息をあたしはついた。「極楽浄土のここちです。このままあの世に行ってみたい」。
あたしの葬式の日、あの人たちはあたしの言葉を想い出すだろう。
医者にかかったことのないのがあたしのいつもの自慢だった。あの人たちはあたしの死を知って、人の命はさもありなむと感慨をあらたにするに違いない。そしてまた、自分の死が着実に迫って来る気配に首をすくめるだろう。
 
 あたしは自分の意志で死にのぞんでいる。孫の友人がこのひと月前にふいに死んだ。心臓麻痺であった。大学の卒業式を終えて、明くる日は下宿をひきはらって帰郷するはずであった。本を読みさしたまま、眠っているようであったという。息を引きとったあと、何時間も気付かずにほおっておかれた。
アルコールで体を拭いてあげた時、皮膚はつややかで、その肉はみずみずしく弾力があったという。鼓動しないその子の体は人々に解剖することを全く断念させた。その子の死は生の部分にやってきて、生の全体を停めてしまった。
 
 あたしの死は、生の全体にやって来ているのだ。
あたしは今、死に至る時間をほんの少々、自分の意志で短くすることが、というより長くすることをしないことができる。あたしが死を選んだというのは、あたしの見栄である。
ただ、自分から死のほうへ歩みを進めるということにおいて、あたしの意志が働いているのだ。あたしの生の部分にある力が働いているのだ。その部分は、あたしの今までの人生だ。
 
 ささえていたのは仏にすがるあたしの祈りだった。あたしにそれがなかったら、こうやって自ら死に挑むことはできなかったろう。あたしは悔やんでいない。生きている子供や孫に未練はない。あたしは死の時を選んだ。

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