Jul. 06,2006 Thu    庭園班チーフ
           
 嵐心の会を構成するのは、昭和43〜47年ごろ早稲田大学古美術研究会庭園班に所属していた面々であり、その四年間のチーフ四人全員が出席したのは驚異。
ある大学のある文化系同好会で、散り散りになって33年も経過し、歴代キャプテンとか部長が全員揃うということがどれほど得がたく珍しいか、わかる人にはわかるだろう。
 
 いま思っても不思議なのは、自由の尊重、和気藹々、不羈磊落を歴代のチーフすべてが自らの持ち味として保持実践したということである。四人の個性はそれぞれ異なっても、持ち味が似ていたのかもしれない。人を信じる心、仲間を思いやる心も受け継がれた。
 
 あれはいつのことだったか、彫刻班のMKという女性がHKのことを評して、武者小路実篤の「おめでたき人」とHK本人に臆面もなく言ったと仄聞し、MKに抗議したのは。鼻っ柱の強い女として定評のあったMKが、その時どのような言葉で応じたか忘れてしまったけれど、謝りも撤回もしなかったことだけは確かである。
 
 MK当人は、HKに対して注意を促すくらいの軽い気持ちであったのかもしれないが、それならそれでほかに言いようもあったはずで、MKの舌足らずというか、物の言い方を知らないというか、お粗末というか‥。そういうことはいつまでも憶えているもので、めったなことは言えない。
 
 文化系同好会のような親睦団体に政治の論理や力学を持ち込むべきではない、私はそう考えていたし、いまもその考えは変わらない。そういう論理や力学は、競争社会の一員となった後、利益追求をもくろむときとか、政治家にでもなったとき推進すべきことであろう。同好会の代表幹事、チーフに必要なのは力学でも権威でもない、人望である。
 
 U君のチーフ時代、私は分科会や庭園班合宿に参加しにくくなっていた。前古美研代表幹事KTのお達しが下っていたからだ。「彼(私のことです)を古美研の行事に参加させるな」と。そのころ代表幹事だったKY君から聞いた話である。KTや彼の仲間にとって、とかく私は目障りな存在であったのだろう。
 
 ふだんは言葉少ないU君だが、ここという時にはっきりものを言った。言うべきことをはっきり言うが、口調になんともいえないあたたかみがあった。U君はKTのお達しを無視した。そんな話はハナから存在しなかったという姿勢を凜と貫いた。不羈磊落の庭園班がそういう類の干渉を容認できるわけがない、U君はそう思ったにちがいない。
 
 昭和46年8月、京都の庭園班合宿、参加してもいない私は日中、烏丸丸太町のパレスサイドホテルに後輩数人を呼び、それはつまり同志社大学界隈の麻雀荘で一局もうけるということであり、彼らの貴重な自由時間を身勝手な先輩に提供してもらうということなのであった。
その時のメンバーが誰々であったか、よくは憶えていない。ただ、そういう時のおなじみとして、MK君、KM君などが付き合ってくれたように記憶している。古美研代表幹事をしていたKY君は、「ダメですよ、後輩を巻き込んでの麻雀は。」と渋い顔でぶつぶつ言っていたが。
 
 同志社界隈の不埒な行事にチーフのU君が付き合ってくれたかどうかは思い出せない。立場上、付き合わなかったかもしれないが、見て見ぬふりをしてくれたのは間違いない。
私は幸せだった。庭園班チーフと庭園班の面々は、私のわがままをイヤな顔一つせず、むしろ好意的に受けとめてくれた。そんなことを私にしてくれたのは、祖父母や両親、鳥取の従兄、家内のほかに見当たらない。
 
 U君の後を継いだHH君も口数の少ない不言実行型の人間であった。言葉は少ないが責任感は強く、なすべきことを着実に実行していったように思う。歴代庭園班チーフの特長は寛容であったことである。そしてそれは庭園班に在籍した面々の特長でもあった。
 
 彼らを知らない人は誉めすぎと思うだろう。しかし世の中は広い、ある時期、ある同好会のあるグループに、そういう人々が参集することもないわけのものではない。
早稲田大学古美術研究会といっても種々雑多な人々の集まりで、なかには強権的とか村落共同体的な者もいた。仲間意識が強すぎると、とかくそういう傾向が表に出る。
 
 庭園班はそういう人々とは一線を劃し、どこか超然としていたような気がする。庭園班の仲間意識が弱かったというのではない、仲間意識の強調を爽快とは思わなかっただけのことである。そんなことをしなくても、そんなことをしないから和気藹々を保っていけると考えていたのだ。

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