Jun. 15,2006 Thu    交換ノート
 
 それは、いまはない「茶房 早稲田文庫」の古ぼけた樽状の円テーブル(樽そのものだったかもしれない)の上に置かれていた。当時は交換ノートではなく交換日記と呼んでいたような気もする。
なにせ記憶が曖昧なだけでなく、よみがえり機能もおとろえている上、株価の値動きにはげしさが加わり、そっちのほうに気を取られている現状とあっては、交換ノートもなにもあったものではない。
 
 いまにして思えば、あれは古美研にとっても庭園班にとっても垂涎ものの貴腐ワインのごとき存在で、代替しがたい貴重な財産であった。当時の庭園班または古美研交換ノートに登場回数の多かったのは目黒の同期F、私たち古老の一年先輩Hさんであったと記憶している。先輩Hさんは私たちが二年になったときにはすでに古美研から離れていかれたので、同期のFが主に書いていたのかとも思う。
 
 同期庭園班のKMさんもごくまれに書いていたはずだが、何を書いていたのかほとんど憶えていない。憶えているのは、FがKMさんのことを「びちょうこ」と交換ノートに記していたことくらいであろうか。びちょうこはいつの間にか「びちょっこ」となっていたけれど。読んだ美朝子さんの「きたな〜い」とクチをとんがらせながらも笑っていた顔と声が脳裡をかすめる。
庭園班チーフだったHKも交換ノートに何か綴っていたはずと思う。ところが、彼の綴った文章を思い出せない。だからなおさら交換ノートは得がたい遺産なのである。だれも相続せず、忘却のまにまに消えた遺産。
 
 他班では、Big VillageというペンネームでOMさんが半年に一度くらい、簡潔かつ鮮烈な文章を書いておられた。しかし、これとてどういう内容であったか、よくは憶えていない。
 
 いまなお鮮明に憶えているのは、表題も示さず匿名で、「かきくけこ。らりるれろ。たちつてと。さしすせそ。はひふへほ。」と書かれたそれを読み、名は伏せるが、同期約三名の女性が、「いやぁね」といい、当時カマトトとあだ名されたTHさんが、「なに、これ」と私に訊いたことくらいである。(「いやぁね」と口をとんがらせた女性三人の目は笑っていた)
むろん、THさんの問いには応えなかった。訊かれたからといって、なんでも応えればよいというものでもないだろう。事と次第によっては説明を避けたいこともある。
 
 きょう(6.15)、KY君からキャンパス・ツアーなどの写真が届いた。大隈銅像前で撮った写真に後輩MY君と私、後輩HH君が写っており、コンパクトデジカメの特性で色が実物よりあざやか。三人とも表情や姿に動きがあり、HH君は後ろ向きであるが、横顔は笑っていて、実にいい写真だった。
KY君の添え書きに、「過ぎし日々の記憶を呼び起こして下さった参加者の皆様にも感謝するばかりです」と記されていた。過ぎし日の記憶。これがいいようもなく懐かしい。
 
 交換ノートに書き込まれたことどもを私たちが胸ふくらませて読むのは、書き手が現在のことを書いていても、その背景に過ぎし日の記憶が在るからではないだろうか。私たちは彼らを知っているのだ。
人それぞれ色合いや濃淡はちがっても、色彩の多様さ、あざやかさはそれほどちがわないだろう。現在の書き込みがあのころの日々を呼びさまし、書き手を鮮明に彩り、仲間も彩られる。
 
 しかし交換ノートは継承されなかった。その記憶も残っていない。だが、漠然としてとりとめのない懐かしさは記憶のなかにいまも在る。そうした感懐が私たちを惹き合わせる役目をしているのかもしれない。
この世は理解しがたいこと、意外性に満ちている。そして過去の記憶だけがそれらに煩わされない安息の地なのである。記憶が後悔と哀惜をともなうものであったとしても。                   

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