May 17,2006 Wed    魂の形見
 
 あれほど毎日が充実していた日々は二度と経験できないと思った。その人に逢うだけで満ち足りた気分になった。行き交うことばに潤いと艶があった。あのころもはっきりわかっていたが、その人の美しさの源はムダな動きがないことだった。多くの女性は余分な動きをするから美しさを失う。日舞も洋舞も、ムダな動きがあれば美しさを失う。
 
 その人は早稲田に入学した当初から時代を駆け抜けてきた。多忙な日々をおくってきたはずである、なのになぜか多忙を感じさせなかった。多忙を人に感じさせることはすなわちムダな動きを見せることに通じ、他人の目に美しく映らないという美学がその人に在ったのではないかと私は思っている。美と多忙は互いを相容れず、美は忙しさの対極に存在する。
 
 いつだったかドライブしているとき、菩薩や如来が忙しそうにしていたら‥ほんとうは衆生を救済するのに忙しいのだろうけれど‥昔の人はありがたいと思わなかったろうし、いまの人たちも美や信仰の対象としなかったかもしれないといったらば、その人はほほえんでいた。
 
 はじめてその人をみたのは、昭和43年春、古美研(早稲田大学古美術研究会)新入生歓迎旅行の目的地の一つ甲府だった。そのことは「思い出す人々」の「春の雪」に記した。
鮮烈だった。その人の存在が私の血液のすみずみにいきわたり、えもいわれぬ感覚にみたされた。驚きと喜びがいったん空中に飛散した後、脳を経由せず直に血管に入ってきたという感じだった。それはあたかも魂の震撼をおぼえるほどの風景をみたとき、感動が脳からではなく皮膚から入って鳥肌が立つさまに似ている。
 
 深い経験はあとになればなるほどその深さがみえてくる。それが自らを知るということであってみれば、いやおうなしに自分がほんとうに愛したもの、真に影響を受けたものが何であったかを知るのだ。
 
 親子でも夫婦でもない相手に対して人はいったいどれほど尽くせるであろう。恋愛途上でそれほど尽くせるものだろうか。ごくふつうに考えれば、恋愛といってもほとんど恋で終わり、愛の伴うことは少ない。
愛の有無を判別するたしかな手だては、どれだけ相手に尽くせるかをみることではないだろうか。何をいったかではなく何をしたか。あるいは、何をいわなかったかではなく何をしなかったか。すべきことをし、すべきでないことをしないこと。
 
 しかし人間はあさましい。愛があっても、時にはすべきでないことをすることもある。そんなとき私はこう思った。欲望に負けた魂は前より強靱となって欲望への免疫力が増し、ふたたび同じ間違いを犯すことはないと。自己省察が自戒の念をうながし強化する。が、はたして同じ間違いを犯さないと断言できるだろうか。
 
 「書き句け庫」の「ベナレスからの手紙」(2006年5月11日)に、「末尾に至るまでの行間の随所に、書こうとして書けなかったことが散りばめられ、そのすべてを読み取ることができた」と記したのは、「あたしは心配しがいがないほど丈夫で、運もわるくないから元気はつらつ」とその人が手紙に書いた文章の行間を自分でも不思議なくらい読むことができたからだ。
 
 新聞社の入社試験に失敗し、そのほかにも何かと運のわるい私を、「運のわるくないあたしが支えてあげるから大丈夫」と彼女はいっているのだ。行間に記されたことばにならないことば。ことばにしなくてもわかるはず、それがその人のメッセージだった。「書き句け庫」の「手紙」(2005年12月20日)に、「人にはわからないかもしれない共通のことばで心をかよわせ、お互いを確かめ合ってきた」とその人が書き、さらに、「あなたほど、あたしのことばが通じた人はこの先あらわれないかもしれません」と書いたのはそういう理由によるだろう。
 
 不思議なことはもっとある。その人と喧嘩して何日かあえない日々が続いたとき、とうていあえそうにない場所でバッタリあった。「あんな男、口もきくのもイヤだ」、そう思っていたはずなのに、喧嘩のほとぼりもさめない日、思いもよらないところであえば‥それも一度や二度ではなかった‥運命的な何かを感じる。私もそう感じた。
 
 しかし実は、そこへ行けばその人にあえるような予感がした。ふだん使わない地下鉄の駅の階段途中、美術館の裏通り、映画館の入口。足が自然に私を運んでくれた。待つ必要はなかった。そこにたどりつけば必ずその人が歩いていた。愕然としているその人とは裏腹に、涼しい顔をしている私をみて彼女は当惑するどころか腹が立ったかもしれない。
地下鉄入口階段での遭遇は映画のワンシーンだった。下から見上げる女、上から見下ろす男。一瞬曇ったような女の額、驚き色に変色する眼。
 
 就職が決まらずフラフラしていた私は、どれほどその人Mさんをイライラさせたことであろう。そんな私に根気よくつきあってくれていたMさんが、とうとう爆発したことがあった。
当時私は渋谷の下宿を引き払い、下落合の賃貸マンションに引っ越しする準備をしていた。引っ越し前に起こったことで、ずいぶんとMさんを心配させ、迷惑をかけた。だがMさんは迷惑顔をするどころか、むしろそんなときこそ頑張らねばという姿勢を貫いた。
 
 休日時のMさんは、私のかわりに仲介業者との契約をすませ、引っ越しの段取り、食器やカーテン、日用品の購入、部屋の掃除まですべてやってくれた。そして辛い日々を送っていた私を、銀座の大手建設会社の勤務を終えたあと、毎日見舞って励ましてくれた。
以前に私の母と銀座であっていて、あうのはそれが二度目だったが、「Fさんは負けず嫌いだからそうなっただけです」と私をかばってくれた。最初、母はMさんのことを「素直で明るい女性」という印象をもったらしい。が、二度目にあったときは「逆境に強い女性」と思ったという。
 
 あとになってMさんから聞いた話では、引っ越し先を物色中、Mさんは私が血を吐く夢をみた。その夢はまぎれもなく正夢だった。大量の血液はしかし、肉体からではなく精神から吐き出されたのである。
引っ越した後もMさんの世話になるのは明らかであった。平日は勤務後、休日は日中からでも、私の在不在を問わずいつでも来てもらうことで、私はある種の充足感にひたっていた。
 
 そんなある日、相変わらずフラフラしていた私は、Mさんとの共通の知り合いを泊めたことがあった。翌朝、合い鍵で入ってきたMさんは激怒した。いきなり、こぶしを握って殴りかかり、私は張り飛ばされた。呆然とする私に次の鉄拳が飛んできた。二回目は私の矜持のなさに対する鉄拳にほかならない。
泊めたのは女ではない、男ではないか。それも、知らぬ人ではない。そんな私の表情を読み取ったMさんにいっそう怒りがこみあげた。Mさんの顔に誇りを失いかけた男への憤りなのだと書いてあった。
 
 前夜、ほかの場所で麻雀をしていた私が下落合に帰ったのは明け方だった。何度ダイヤルしても応答のない電話にMさんはすぐにも飛んで行きたい気分だったろう。大事を控えて遊んでいる私への苛立ちと心配が昂じて来てみたら、そこには悄然とした間抜け面があった。それがMさんを爆発させたのだった。殴りかかられたときの痛みは一瞬だが、一瞬は果てなくつづくだろう、Mさんの痛みがどれほどのものだったか私にわかるまで。
 
 私は自らが犯した過ちと、就職先が定まらないことで自信を喪失していた。Mさんをしあわせにできない見込みはあったけれど、しあわせにする自信はなかった。にもかかわらず、未練と妄執だけは日々強くなっていった。それらを断ち切るために、絶対に後戻りできない行動‥自らの品格を貶め、最愛の人を深く傷つけ、私も生涯の傷を負う‥をとった。自らの手で生木を裂くことによってしか未練と妄執を断つ手だてはなかった。
それは、崖っぷちに追いつめられた私と、私のせいで崖っぷちに立ったMさんが、もろともに崖から落ちない唯一の方法であった。そうすることで私は私を永遠に葬った。永遠とは時間が永遠に続くことではない、時間が止まり、生あるかぎり不変であり続ける何かである。せっぱ詰まった末に余禄があるとすれば、Mさんの新たな人生が拓けることしかない。
 
 回復するのに二、三年かかると私はMさんに書いた。Mさんは、「くだらない仕事に就かず自由に生きられるのです。徹頭徹尾、自分だけのためにあなたは生きるべきなのです、それでなければかえって、まわりの人間が不幸になってしまう。あなたの渇きをいやすことのできる人間は、組織の代表である女ではなく、あなたの母親そのひとのみなのです。書かなくてもよいことを、やっぱり書いてしまいました」と書いていた。
 
 それはちがう、そう叫びたかったが、私は一切の声を発さなかった。いまとなっては何をいっても届かない。届かないほうがよかった。私にはたしかな予感があった。回復するまで二、三年といったのは出まかせである。五十歳になるまでかかると出そうになったことばを飲み込んだのだ。そのくらいの年齢になれば、容貌や気迫のおとろえをみせないタフなMさんでも、なにがしかのおとろえの兆しはあるだろう。私は老化で記憶があいまいになり、烈々たる妄執も完全に消え去るはずである。
 
 Mさんとて心の葛藤と煩悶はすさまじかったにちがいない。私の母は特殊な法人の代表役員であり、嫁ぐということは否が応でも母と無関係ではいられず、受け容れ難くても向き合っていかねばならない。その関係を稀薄にするために私の早急な就職は必須であるが、もたもたしている配偶者予定の男と、男の母に対する自らのハラを決め、覚悟するに至るまでの葛藤は想像を絶する。
 
 
 二度とあうことはないとお互い思ってきたのに、別れて一年ほどたったある日、JR大阪駅東改札口でばったりあった。Mさんは私を見て、親のかたきにでも会ったかのように肩をいからせ足早に去っていった。
その後、JR神戸線の京都方面行き電車に乗り、シートに腰掛けたら、真ん前のシートにMさんが座っていたこともある。互いにひと言もことばを交わさなかった。交わせなかったのは、Mさんの憤慨顔に直面したからである。陸に上がったフグのようなふくれっ面をしていたけれど、いまにも殴りかかりそうな迫力は消えていた。それがMさんを見た最後である。
 
 Mさんと「心をかよわせ、お互いを確かめ合ってきた」(書き句け庫の「手紙」)日々はまさに夢のような日々であり、夢でさえMさんにあうことはないと思った。しかし、その後Mさんは何度となく夢にあらわれた。
夢のなかのMさんは別れた後のしあわせを語ることはせず、いつもの調子でなんの屈託もなく語りかけ、あの快活な笑顔をみせた。深夜ふと目ざめた私は、夢の続きをみせてくれと願いながら再び眠りについた。ふとんのなかで私はいいようもなく満たされていた。
 
 長い空白の間にひとつだけ興味深いことがあった。1980年代後半の数年間、仕事上道教の研究に没頭し、福永光司の著作を読みあさったことがある。「道教と東アジア」、「道教と古代日本」、「道教と日本文化」、「道教と日本思想」、「老子(上下)」など。同じころ、Mさんも道教研究に従事していたことを後になって知った。なぜMさんが道教と深く関わるようになったか私にはわかる。
不可視的領域に異床同夢とでもいうべき何かが時空を超えて存在したのかもしれない。思えば長い夢をみていたものである。いま私は夢からさめて、もう同じ夢をみることはないだろう。夢からさめたらMさんの声がきこえてきた。
「偉くなったら許してあげようと思っていたのに、偉くなってないからますます許せない」。
 
 『書き句け庫』の「手紙」、「姉妹の料理番」、「ベナレスからの手紙」、『思い出す人々』の「ちあきなおみ」、「春の雪」に登場する女性はすべて同じ人なのだ。
 
 Mさんと過ごした日々、それは、魂の形見である。
 

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