Apr. 19,2006 Wed    空白の魔力
 
 きのうきょうの知り合いなら、冷たくされてもすぐ気をとり直せるが、旧知の友に素っ気なくされればそうはいかない。すがたかたちは変わっても、心はほとんど変わらない。相手の心のことはわからない、自分の心はたやすく変わることはなく、私たちはそういう類の者同士だと思っている。
 
 膨大な時間が経過したはずなのに、時間は経過していないに等しく、時間のなかに横たわる空白は、私たちが過ごしてきた時間とは別の過ごし方をしてきたようだ。
空白のなかでは、空虚や無気力だけがわがもの顔にふるまっているわけではない、充実がそれらをしたがえ凌駕することもないわけではないのだ。うつくしい記憶をそのまま保っておきたいという心が強くはたらくこともある。
 
 イタリアやスペインを旅し、ウフィツイ美術館やプラド美術館に展示されているティツィアーノとかゴヤの名画をみて疲れたら、それ以上絵をみても心の目に入ってこないように思え、そういうときは、館内にいる美しい女をみるか、さもなくばいったん外に出て、子供の通りすぎるのを眺めているほうがよい。
 
 空白の魔力と、女の魅力の違いをあえて記せば、女は魅せられている間は私たちをトリコにするが、いつの間にか消えさってゆく曖昧なものである。容貌にめぐまれ、才気走ってはいても、機知に富まず、男を癒やせない女に真の魅力のあろうはずはない。それにひきかえ、空白はゆたかさに満ちあふれている。そこには無数の苦渋と哀歓、怒りにも似た嗤い、やわらかいバターにナイフを入れたときの溶けるような歓び、そして、極度の緊張がひしめきあっている。
 
 私はいまでもそうだが、たとえ心惹かれるものであっても、通りすがりのものを愛することはできない。私を真実の扉へいざない、心を解放し、魂を揺さぶるものしか愛することはできないのだ。たとえそれが漆黒の闇へいざなうものであったとしても。
そしてまた私は、自分自身の急所に届くものしか興味がない。秋の夜の雨のように、話そうとすればするほどたれ下がってゆくものは不向きである。急所、あえて言葉にするなら、孤高と爛熟。それはちょうど隠遁者の嗜好のようなものではなかったか。
 
 いつのころからかは忘れたが、現在にそれほど興味を示さなくなった。現在は未来のためのさまざまな日程をこなしているにすぎないと思えるからである。空白は時として過去という言葉に置き換えられる。そしてそれは、いま過ぎゆく時間に影を落とすのである。すくなくともそのことを示唆している。
 
 時間は連綿と続いているわけのものではない、空白によって時間は束の間切りとられる、過去が現在を切りとるように。私たちが思いを募らせるのも、空白あるがゆえである。空白を埋めたいという欲求がおきるとすれば、私たちのなかに過ぎゆく時間はすでに切りとられている。逆説的にきこえるかもしれないが。
人が惹きあうのも、人を恋しく思うのも空白の魔力とでもいうべき何かである。空白であるにもかかわらずそこには、いま過ぎつつある時間より深淵なる時間が刻まれ、私たちに再生の道をさぐらせようとする何かが存在するのだ。
 
 いま思えば、追憶の彼方の人々のなかに懐かしく思う女性も何人かはいるが、思い出して胸が熱くなるのは男たちである。彼らに会うときは、自分なりの望みを成し遂げた後に会おう、そう考えていたのだが、叶えないまま会うこととなった。
私にとっては機が熟したのではなかった、空白の魔力にさそわれて飛び出してしまったのだ、フライングしたアスリートのように。だが私はそれでもよかったと思っている。孤高を標榜し、熱き思いを抱きながら老いさらばえてゆく隠遁者をつづけているよりは。

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