Dec. 03,2018 Mon    ヤズディの祈り

 
 林典子著「フォトジャーナリストの視点」によると、母子の写真(上)は「夫をダーシュに殺された、19歳の母親ズィーナ。イラクの避難先で息子ビワ=クルド語で家がないという意味=に母乳を与える」と書き記されている。ダーシュとはシリアとイラク北部を拠点とするテロ組織ISの現地の呼び名である。
 
 「ヤズディの祈り」写真展は2016年秋、東京で開催され、関西では2018年春〜夏、京都市北区等持院町の「立命館大学国際平和ミュージアム」でおこなわれ、同年5月18日(金)みにいった。毎週金曜日はナイト・ミュージアムを実施、午後7時まで開館しており、同日午後3時半から1時間の桂離宮参観後でもゆっくり見学できた。
 
 それから約5ヶ月たった10月6日の夕刊によると、ノーベル平和賞が授与された2名のうちナディア・ムラドは、ISによって性的暴行を受けた体験を語ってきたヤズディ教徒の女性活動家である。「ヤズディの祈り」写真展に口覆面したナディア・ムラドの写真が展示されていた。
新聞テレビはヤジディー教徒と呼び、林典子も毎日新聞のインタビューでヤジディーと記されることに異を唱えていない。以降ヤズディまたはヤジディーを適宜用いる。
 
 林典子は2ヶ月半パキスタンに滞在し、硫酸に焼かれた現地女性を撮影した作品によって2011年第7回名取洋之助写真賞を受賞したフォトジャーナリストで、アジア・中東各地における独自の取材をとおして歴史をかたどっている。2014年、全米報道写真家協会「現代問題部門」のファイナリストにもなった。
 
 「書き句け庫」掲載がここまでおくれたのは、6月や7月は旅行シーズンであり、5月中旬から準備に追われてHP更新どころではなかった。10月6日の報道を知ってボチボチと思いつつ先送りしたのは、そういうときによくあるケースで、ほかに書くべきことがあったのと、ISに関して言及したくなかったことにもよる。
かつてソ連のアフガニスタン侵攻により回り回ってテロリストの支援を受けたタリバンがのさばり、多くの女性を暴行・虐殺したあげくバーミヤンの石仏2体を破壊したことへの怒りが消えず、高血圧に悩まされる昨今、激怒は脳血管切れをまねきかねないからである。
 
 「ヤズディの祈り」写真展のチラシに、「少数民族ヤズディは独自の宗教、信仰を持ち、イラク、イラン、トルコ、シリア周辺の地域に分散して暮らしていました」、「ところが2014年、イラク西部の山岳地帯がダーシュ(イスラム過激派組織IS)の襲撃を受け、約5000人が殺害、約6000人の女性が性奴隷とされる惨劇にみまわれました」、
「イラク北西部にそびえるシンガル山の麓で、何世代にもわたり営んできた日常が一瞬にして奪われたヤズディの人々」と記されている。
 
 さらに林典子写真集「ヤズディの祈り」に、「春には、草原地帯が菜の花で染まり(中略)、夏の夜には流れ星を数えた。果物、野菜が収穫できる秋には、多くのカップルが結婚式を挙げた」と書かれている。
 
 ダーシュに拉致され、監禁されたヤズディ女性の逃亡経緯は省くとして、彼女たちの一部がイラクの難民キャンプに落ちのび、その後ドイツ南部バーデン・ヴェルテンベルク州のサポートによりドイツへ行くことはできたが、州政府の取材許可が出るまで数ヶ月を要している。
 
 安全確保が優先されるから撮影も順調に進まない。写真はネット撹拌の恐れもあるので、当人と関係者に掲載の是非を確認し、個人特定できない写真のみ用いる。林典子は、「同じ言語を話す人でも、取材対象者とは違うコミニュティに属している通訳だと、うまくいかなくなってしまうこともある。ヤズディの通訳でなかったら取材撮影は相当難航していただろう」と述べている。正鵠を射た一文である。
 
 ヤズディ教徒は世界全体で60〜100万人いるといわれ、その半数はイラクに住んでいる。メディアの多くはヤズディをクルド人であると伝えている。クルド人はかつてヤズディであったにもかかわらず、イスラム教徒によって改宗を強いられ迫害されたが、熱心なヤズディ信奉者だけがイスラム教を拒み、現在に至ったという。
ヤズディはヤズディ以外の結婚相手を許されない。サダム・フセインにより別の土地へ強制移住させられたこともある。林典子写真集「ヤズディの祈り」の「ヤズディの記憶と未来」と題した6ページ半の文章は一読に値し、単行本「フォトジャーナリストの視点」(林典子著)は示唆に富んでいる。
 
 「フォトジャーナリストの視点」に、「ドイツへ渡ったヤズディがイラクからこっそり鞄に忍ばせてきた宝物の人形や時計など、ヤズディに起きた悲劇の全体を伝えるというよりは、ヤズディ個人の記憶の欠片(かけら)をかき集めるようなアプローチで取材をしてきた」と記したのは、彼女の基本姿勢であるのだろう。
基本は木村伊兵衛のスナップショットなのだ。愛用したライカで軽業師のようにひょうひょうと撮る木村伊兵衛の晩年のすがたをテレビのドキュメント番組で見たことがある。
 
 彼女は2005年創設の名取洋之助写真賞を受賞したのだが、名取洋之助(1910ー1962)は妻エルナ・メクレンブルクの撮影した写真(火災現場)をドイツの写真週刊誌に持ち込んだことがきっかけとなり「週刊グラフ誌」と契約、日本で名を知られるようになった。
写真に関してエルナのごとく十分な実力をそなえていたかどうか別として、カメラマンとデザイナー起用にかけては第一人者であり、離合集散をくりかえしたとはいえ、写真家・木村伊兵衛(1901−1974)、写真評論家・伊奈信男(1898−1978)などと日本工房を起ちあげ、解散後、土門拳(1909−1990)も参加する工房を再起し、戦前の写真界に活況をもたらしている。
 
 だが一方で生来の傲慢が高じて、自分と異なる感性をもつ職人的リアリズムの名匠・土門拳と対立した。名取は芸術写真を「お芸術写真」と侮辱し物議をかもすが、「岩波写真文庫」の編集長をつとめるなど岩波書店と深く関わった。名取の助手をつとめた或る写真家の言を借りれば、彼の文章はすべてゴーストライターの手によるものらしい。
 
 写真家と文筆業は土門拳のように両立してもいいわけで、林典子は着眼点がよく、文章は生き生きしていて、まとめ方も適切。自然描写もゲール・E・メーヨー(「夢の終わり」)ふうで、いまにも情景が浮かんでくる。
 
 ヤズディの女性は日本語を読めなくても、欧米・西アジアに分散している彼女たちへ送った林典子写真集に自分の写真が載っているのをみて、住み慣れた故郷の山河を想うだろう。生まれてくる子や成長過程にある子らに故郷のまほろばを語ることができるだろう。写真は残るのだ。
 
 「ヤズディの祈り」写真展のなかでこれはと思ったのは、シリアやトルコ国境からイラクに入った数名のクルド人女性兵士が、なだらかなシンガル山中(イラク)の見晴らしがきく高台に土嚢を積んだだけの簡易要塞で見張りをしている写真である。ダーシュを見張っているのだが、重機関銃一挺も写っていることを鑑みれば、ダーシュとの戦闘にそなえているのは疑いの余地もない。彼女たちの横顔に笑みがもれている。明日をも知れない命とは対照的な快活。よくぞ撮ったり。
 
 過激テロ組織アルカイダが欧米諸国を震撼せしめたころからメディア、特に日本の新聞はテロリストの首謀者をリーダーとか指導者と呼んでいる。そういう呼び名をつけるにあたって特段の申し合わせがメディアにあるわけのものでもないのになぜか。他社がそうだから自社もそうするというのならツレ×××のようで気持ちわるい。
指導者、リーダーはイスラム過激派に属す不逞の輩にとってそうかもしれない、が、われわれからみれば単なる殺人者破壊者であり、あえて呼ぶなら首領、首謀者が適している。
 
 子どものころ、戦争ごっこに「出てくる敵は、みなみな殺せ」という歌があった。戦争も生も死もわかっていなかった。まして殉教などという屁理屈は。殉教者は死後そのように呼ばれるのであって、殉教と称して死を強制するのは狂気にほかならない。
 
 テロ集団が最も恐れるのは何か。テロ首謀者は自分の命を狙う米軍精鋭部隊を恐れるだろう、ビン・ラーディンがそうであったように。下っ端のテロリストが恐れるのはテロリストである。
アフガニスタンやイラク北西部での残虐行為は、生かしておくと仕返しされるからだ。女性を殺す理由は、彼女たちが仕返しせずとも、子らが報復するからだ。根絶やしにする理由はそこにあってほかにない。殺人集団は衝動で殺さず、確信で殺す。
 
 テロリストがどこにまぎれこんでいるかわからない時代には、中東諸国でもヨーロッパでも米国政府の高官、要人が利用する高級ホテルは避けねばならない。何時まきこまれるか予知できないのだ。そんなことを気にしなくてもよかった1970〜1980年代がなつかしい。
「きょうのトピック」2001年9月15日に「米国の真意(または三極構造)」と題した短文を掲載した。あれから17年有余、往時の予想をはるかにこえる勢いで中東諸国、特にシリアからの難民が増えつづけている。第一次大戦勃発時、ベルギーからフランスや英国などに140万人ともいわれる難民が押し寄せたこともある。シリア難民の総数はよくわからない。
 
 難民受けいれを維持してきたドイツでは、2018年10月14日バイエルン州議会選挙で難民政策に反対票が多数投じられ、与党は惨敗した。長期におよぶメルケル連立政権が危うくなっている。ドイツは以前よりトルコからの移住者や、中東諸国からの難民に寛容な姿勢を示している。
多くのシリア難民を救済するのは人道的理由だけではないだろう。ナチスドイツという過去の罪滅ぼしもある。ドイツ国民は暗黙の諒解によって難民を救わねばと思った。しかし、さまざまな問題が発生し、過去に拘泥しない人々が多数を占めるようになった。キリスト教の贖罪を意識しない人々や、意識しても難民が町に来るのは反対という人たちが増えたのである。
 
 インターネットの拡散は正義の拡散とはならなかった。正義は大国の正義とみなされ、テロリストから排除された。インターネットの利点は迅速だが、迅速ゆえの弊害もある。迅速は安易とほぼ同義語だ。迅速は安易な殺害を可能とし、デマゴーグが真実の口となる。見極めさえインターネットがおこなう。数億人以上がインターネットに依存するご時世なのだ。
 
 季節はめぐり、人はめぐり、とどまることはない。

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