Nov. 14,2018 Wed    きみ知るや古都の日々(3)
 
 奈良県新公会堂(現・奈良春日野国際フォーラム甍)がオープンしたのは1989年4月、初めて行ったのは1994年6月29日だ。その日は午後6時に「千万の会」があり、狂言大蔵流茂山家と和泉流野村家各々から茂山千五郎(四世茂山千作)、千三郎など、七世野村万蔵、二世野村万作が出演しており、「千万の会」何回目かわからなかったが見逃す手はなく、新公会堂の能舞台も見たかった。
 
 新公会堂の能舞台は、新しく美しいだけではなかった。空気が新鮮で、春日大社の原生林を森林浴しているかのような心地になり、ロケーションは春日の森に隣接しているけれど、空調もここまできたかと感心。
前売り券をプレイガイドに問い合わせたらすでに完売、当日券はないということだった。すんなりあきらめるのも能がないので新公会堂に電話すると、「完売です」と申し訳なさそうな声の担当者が、「すこしお待ちいただけますか」と言い、5分ほど待たされ、その日の「午前中にキャンセルがありました」とこたえた。幸運というべきか正面(能楽堂座席は正面、中正面、脇正面がある)の真ん中、前から6番目を2枚確保できた。
 
 歌舞伎は共にみていたが、能狂言文楽は別行動だった伴侶は、新公会堂は行きたいと話しており、狂言をみるのは学生時代以来と言い、特別ゲスト瀬戸内寂聴が何をしゃべるかおもしろそうということで一緒に行ったのが大正解。
スタートは「萩大名」、大名は茂山千五郎(四世茂山千作)、太郎冠者に茂山千三郎、庭の亭主に茂山正義(五世茂山千作)。千五郎の不羈磊落、千三郎の軽妙洒脱、正義の自由自在は滑稽味にあふれ満場爆笑。
 
 ビギナーズラックではないのだけれど、この日から伴侶は千五郎贔屓となり、四世千作襲名披露ほか千作の狂言を何度みにいったことか。京都観世会館は私たちでもったようなものだと十年後、笑い話のタネになった。千作からときおり発せられる合いの手「なんじゃ」を口まねする伴侶は楽しげで、京都観世会館、大槻能楽堂などで千作が舞台に出ると客席のくすくす笑いが始まり、伴侶の横顔もくずれた。
 
 これだけ客席をわかしたあとの瀬戸内寂聴の「お話」はタイヘンだろうと誰もが思ったろう。司会者の紹介でうしろを振りかえると、紫色の法衣を着た寂聴さんは中正面・最後部の席をすっくと立ち、正面席とのあいだの通路を法衣をひるがえさんばかりに颯爽と歩き能舞台へ上がった。実年齢(73歳)より20歳くらい若くみえた。
 
 開口一番、「千五郎さんと息子さんたちの萩大名、お腹をかかえて笑いました。終わりまでいます」と言い、「今東光先生のおかげで尼になれたんですよ。先生がいなかったらいまごろどうしているやら。小説家なんかとっくにやめて、林芙美子先生の作品のように放浪しているでしょう。先生はお書きになったけど、私はただの徘徊」。
 
 「若いころ夫も子どもも捨てて男と逃げました。正式な離婚はずいぶん経ってから。その男ともうまくいかず、出版社ではたらきながらふらふらするうち小説でも書くかと書いてみたのね。運よく賞をいただいたのが作家のはじまりです。
7年くらいはなんとかやっていたのよ。ひそかにヨーロッパの文豪をめざしていたんです。身の程知らずよね。差がありすぎました。自分にはとうていムリだと思うと書けなくなりました。気持ちがすさみ、悩んでも、もがいても書けません。締め切り過ぎてもダメ」。
 
 「生きているのがイヤになりましてね。ちょうどそのころ東京にマンションが建ちはじめ、青山に住んでいました。マンションはいまとちがってバルコニーはないの。窓の下は絶壁です。飛び降りれば楽になる、飛び降りるしかないと思って窓を開けました。そのとき玄関のドアホンが鳴ったのね。そんなもの気にすることない、さあって感じです。ところがしつこいのよ。何度も鳴るのでいいかげんにしろって言ってやろうと」。
 
 「受話器つかんで黙っていたら、『ハルミちゃん、いる?』って相手が。円地先生(作家円地文子)。近所に住んでいらっしゃって、しょっちゅう遊びにおいでになる。そりゃいますよ、死のうとしてるんだから。
長いことも短いこともあるけど、たいてい長いの、先生は。それでもそんなに気にならなかったのは、円地先生ってすごい物知りで、ためになることもいっぱい教わりました。開けないわけにはいかないでしょ」。
 
 そのあと寂聴さんが何を話したのか忘れた。彼女の呼吸に客の息が合わされ、あれよあれよという間に終わった。狂言は野村万蔵・万作兄弟の「棒縛」、茂山千之丞ほかの「鈍太郎」もあったが、何をみていたことやら。
万蔵のきびきびした動きが見事だったことと、1971年、東京大学「狂言の会」代表だった西尾哲茂君の案内で、目白にあった野村家自宅での月例会へ行き、六世野村万蔵の舞台をみたのを思い出した。
 
 講演で特によかったのは、白川義員、竹本住太夫、瀬戸内寂聴であるが、最も笑わせてくれたのは寂聴さん。笑いすぎると記憶に残らない。なにを食べて生きているのか、そのころすでに朝から牛フィレ肉を食べていたのか、高齢とは思えないほどの美肌には艶があり、いつぞや有馬稲子が言った「恋愛の達人」も誇張ではない。
寂聴さんが瀬戸内晴美だったころ、こころざしが高く煩悶し、ヨーロッパの文豪の表現力に追いつこうとして追いつけないことを嘆き、自己嫌悪と自己憐憫に陥って魂はさすらうが、抜け道を探そうとしなかった。仏門に入ることを決めたのは彼女ではない、抜け道を拒んだ魂である。
 
 
 古都奈良は思い出の地だ。奈良街道に沿うように走る有料道路を車で京都へ向かうと古き良き時代を追懐する。奈良市内の「菊水楼」の沿道、「ならまち」界隈を往くと三条芸者・川太郎を思い出す。自民党の歴代総裁が総理大臣に選出された翌年正月、伊勢神宮と東大寺の参詣が恒例行事だったころ、東大寺別当と挨拶を交わし、菊水楼で会食をたのしむのが常で、そういうとき呼び出されるのが三条の芸妓である。
 
 踊りの師匠は先代花柳芳之丞。先代と当代が出稽古をするほどスジがよく、プロ意識も高かった。お座敷でする会話には品格さえ感じられ、頭の回転は早く、感性もゆたかなのにそれを見せない才もそなえていた。
そのころの私は結婚4年前、29歳だった。川太郎がすこし年上にみえたのは、きれいな容姿に凜然たる風情がただよっていたせいかもしれない。おそらくは30歳前後であったと思う、
 
 自分より年若なのに酸いも甘いもわきまえ、卓越した接客姿勢を示した女性はいる。1980代初め大阪中之島のホテル「なだ万」にきたばかりの若い仲居。面立ちは和服の着こなしがうまい市川実和子に似ていた。
2005年「第一回庭園班OB会」の宴席となった嵐山「嵐亭」の仲居頭は当時30代半ば。応対がてきぱきしてことばも的確、しかも優美なのである。OB会当日(2005年10月9日)、朋友HKに会ってもらいたかったが、あいにく彼女は非番だった。目と体つきは庭園班の恵子に似ていると記せば同期ほか数人にはわかるだろう。
 
 「昭和になって芸名のほとんどが男名なのはなぜ」という私の愚問に対して川太郎が、「いややわぁ、てんごぅ言わんといてください」と言ったときのあでやかな顔、あざとい目。色気を隠しているから効くのだ。そして、ふりかえった後ろすがたのうなじの白さ、元宝恍組・姿あさと似の面立ち、忘れられるものではありません。男名を名乗るのは、ご主人が寝言に女性の名を呼べばヘンと思う奥方もいるからである。
 
 さて奈良街道である。南都焼討の主因は東大寺を建立した聖武天皇以来、歴代天皇の篤い保護下にあった東大寺、藤原氏の氏寺として隆盛を誇った興福寺の僧侶らが京都において傲慢・増長のふるまいをくりかえしたからだ。平清盛は旧勢力と呼ぶほかない大寺院の目に余る行動を放置しておくわけにはいかず、息子平重衡に討伐を命じる。
 
 東大寺、興福寺は平氏の動きをつかめていなかったのか。攻めてくるかもしれないと考えなかったのか。そこが傲慢の傲慢たるゆえん、要するにタカをくくっていたのであり、平氏を甘くみていたのだ。その日、平家軍が大挙して奈良街道を下ってくると知ってあわてふためいたか、僧兵がひとひねりすると思ったか、悲観と楽観は交錯しただろう。
 
 白河法皇でさえ、賀茂川の水、賽の目、山法師は心にかなわぬと嘆いたという。その山法師こそ南都二寺の僧兵である。彼らが新勢力にすぎない平氏を甘くみるのも不思議ではない。東大寺十四世別当は空海なのだ。新参者平氏一族など恐れるに足りぬどころか、阿呆くさいと思っていただろう。
南都焼討から390年後の1571年、天台座主の寺領をめぐる確執に端を発し、比叡山焼討ちをおこなった織田信長は平氏の末流といわれ、平信長として足利義昭に対面している。肉食、好色(女犯)など仏法を逸脱した破戒僧の行為はどうでもいいことで、平安初期から王城鎮護の山としてあがめられている比叡山延暦寺の尊大横柄に信長は業を煮やしていた。
 
 名実とも古都である奈良京都は、どこよりも歴史の舞台に多く登場する。しかも登場人物の個性がきわだっている。古代から近代まで、息もつかせぬテンポと筋立ては秀逸なドラマをみているようだ。
朋友HKが、秋になると京都奈良のポスターやガイドブックが町にあふれ、いやがおうでも目にとまり、旅ごころはくすぐられるというような話をしていたような気がする。
 
 過日、HKに米仏合作映画「女神の見えざる手」(2016)のBDを送った。年に一度、「リスボンに誘われて」(2013 独・スイス・ポルトガル合作)、「手紙は憶えている」(2015 カナダ・独合作)を郵送し、柳の下の何匹目かを期待した。
伴侶の知人の作品(震災体験を描いた画)がNHK神戸支局後援により県立美術館に展示され、その画像をメール添付しHKに送ったらば、感想を簡潔的確に記してくれて、伴侶曰く、「彼女がとても喜んでいました」。
 
 「女神の見えざる手」について朋友は、みるべきものをみ、評すべきものを評していた。「肉を切らして骨を断つ」という表現は決して凡庸な評ではない、「女神の見えざる手」を一言でいえばそこに尽きる。映画を見終えたわれわれ夫婦の口から同時に出たことばだ。
「主役の女優は、時間の経過と共に魅力が増した」は、私と伴侶の会話を聞いていたのではないか。「一夜の相手をした男性が議会証言で、女性ロビイストを知らないと言い張ったのは、あれはあれでちゃんとしたプロだなと妙に感心してしまった」と締めくくったのはHKらしい。
 
 相手をした男性は自らも彼女も生かそうと議会証言で肝心な部分を隠し、そうしたハラを目でさりげなく表現する。もうけ役である。ちゃんとしたプロを過不足なく演じた。
われわれも同じところで同様のとらえ方をしている。HKに讃辞を送れば結局、自分をほめるみたいな塩梅になってしまう。米国で数少ない名優のひとりジョン・リスゴーが上院議員役で出ている。見事に大逆転される側の立役者だ。双方がうまく演じてこそドラマは盛り上がる。
 
 友と共有するのは古都と追懐のみならず。ミステリー、サスペンス、スリラーも共有できる。たのしからずや。学生時代、映画「ドクトル・ジバゴ」に関して「ジバゴの色」と言ったのをHKはおぼえていて、そういう人にはよくできた映画をみてもらわねばならない。友の好みも確かめず郵送するのは私らしさである。
HKはほかにも短く書き記していた。自省自戒というか、自己憐憫というか、自虐の半歩手前というか。私も年に数回はあるけれど、HKはもうすこし多いのかもしれない。
 
 「永ろうべきか うつせみの はかなき影よ」は古賀政男作詞「影を慕いて」(作曲も古賀政男)の歌詞である。問題は歌手だ。演歌歌手は避けてもらいたい。子どものころ見た青空のようにどこまでもつづく澄みきった調べ。昭和初期に生まれた歌は薫風と純真をはこぶ人が歌うべきである。
 
 昭和29年〜33年にかけて続き、いったん終わったかにみえた実家の宴会が昭和30年代なかごろ復活する。そのころ私の実家に時々出入りしていた人がいて、関西のエコー音楽学院に所属し地方公演を続けていた。
地方にこれといった劇場はなく、客席800〜1000ほどの公設・文化ホールにおいて三橋美智也や大津美子の前座として歌っていた。芸名は津島五郎、マイクなしで客席最後部まで届く澄みきった声をしていた。歌手生活を退いたのは30代後半だったと記憶している。
 
 私たちの結婚披露宴の余興に歌をリクエストしたが、歌詞がめでたい席に向いていないからほかの曲のほうがいいでしょうということで変更となる。変更された曲名はおぼえていない。
 
 昭和36年から昭和40年代初め、実家の広間に20数人が集う宴会を毎月おこなっていた。彼は当初、「東京の花売娘」、「晴れた空 そよぐ風」の詞ではじまる「憧れのハワイ航路」など岡晴夫の持ち歌を、ときおり「影を慕いて」も歌った。「影を慕いて」はすばらしかった。そして数年が経ち、満を持すかのごとく「むらさき小唄」を歌ったのだ。鳥肌が立った。涙が出てきた。
 
 このような歌があったのか、誰がいつごろ歌っていたのだろう。ある日、その人・藤原弘道さんにたずねた。意外にも東海林太郎だった。レコードを買って聴いた。比較にならなかった。藤原さんのほうが断然いい、心に沁みいるのだ。結婚披露宴で歌われなかったリクエスト曲である。
 
    流す涙がお芝居ならば 何の苦労もあるまいに 濡れて燕の泣く声は あわれ浮名の女形
 
 存命であれば藤原さんはことし86歳。彫刻刀で彫ったような顔、くっきりと高い鼻、いつも誰かをいたわるような大きくやさしい目。料理が得意で、パスタは特においしかった。あの味と同等のスパゲティを出すイタリア料理店は少数である。柔和なランベール・ウィルソンというべき風貌の藤原さんに演歌は似合わない。
「憧れのハワイ航路」の歌詞は、一番が「晴れた空 そよぐ風 港出船の ドラの音愉し」。二番が「波の背を バラ色に 染めて 真赤な 夕陽が沈む」、三番が「常夏の 黄金月 夜のキャビンの 小窓を照らす」である。旅の情景とたのしさを凝縮した詞ではないか。
 
 子どものころ惹かれた歌謡曲は何曲もあったはずなのに、歌詞をすぐ思い出せるのは岡晴夫の「憧れのハワイ航路」、三橋美智也の「古城」、春日八郎の「お富さん」、三浦洸一の「弁天小僧」で、うち2曲は歌舞伎関連。
母方の曾祖母、祖母、母とつづいた歌舞伎好きは、三代目までは芝居をみて好きになり、文久元年生まれの曾祖母がみたのは九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎だが、四代目は芝居をみていない小学校低学年に歌を聴いて芽吹いたということになる。
 
 英国を旅するようになって古城を訪れる機会が増えた。しかし、観光客が多い城よりダノッター城(スコットランド)、ダンスタンバラ城(北イングランド)に強く惹かれるのは廃城であるからだ。北海に置きざりにされた孤高の廃城は心の風景なのだ。空と海がはてしなく広がり、耳をすませばきこえてくる妙なる調べは天上の音楽。寂寥と孤独をにじませても、どこかなつかしく、清々しい。
 
 結婚披露宴では先代花柳芳之丞も舞ってくれた。会場の仮設舞台は4畳しかなかったが、狭い舞台をいっぱいにつかい、足さばき手さばきのひとつひとつにキレがあり、指先まで神経が行き届いていた。
国立文楽劇場、産経ホールの「花柳流舞踊の会」でも、正月三日、芳之丞の自宅舞台でもみたことはある。自宅と披露宴会場の舞は舞踊衣装を身につけない素踊りなのだが、それでも花があり、伏し目から色気がこぼれた。同様の色気は歌舞伎の名女形と酷似する。名人は時と場所を選ばない。
 
 あのような時代は再びやってこないだろう。豊かで透徹した感性、限りない広がりを保ちながら清々しさと優美なかがやきを見せる人々。葉裏に隠れて雨をやりすごすチョウのように静かなひととき。言わず語らず語り合える友。おもしろうございましたと顧みることのできる人生。無情の時よ、たのしい語らいを忘れさせることはできても葬りさることはできまい。
 
                     (未完)


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