Nov. 06,2018 Tue    きみ知るや古都の日々(2)
 
 美術史家・町田甲一が「奈良古美術断章」に「正しい美的観照がしばしば文学的感傷により甘やかされたり、(中略)。 歴史的価値と美的価値が混同されたりしている。(中略) 特に女流随筆家の歯の浮いたような文章に、その例を多くみる」(「日本の美 第二巻」1967年)と書き記している。
女流随筆家は岡部伊都子をさしているのだろう。白洲正子も入るのかどうかはわからない。岡部伊都子のエッセイは文学的感傷ばかりか、ぬるま湯につかっているようで居心地もよくない。
 
 法華堂の日光・月光菩薩は美と崇高をそなえていると思うのだが、町田甲一は、「東大寺の天平彫刻を代表するのは、むしろ法華堂の諸仏(梵天、帝釈天)と戒壇堂の四天王である。(中略) 
多聞天、広目天のような、眉をひそめ、はるかかなたをみつめた深刻な表情の像のほうがインテリ向きである。このような表情の表現に作家の興味関心が向けられるようになったのが、天平という時代で、それ以前の仏像には全くみられなかった表現である」(「太陽 16号」 1964)と述べている。
 
 岡部伊都子の文章はぱっとしない。白洲正子も若いころと晩年は冴えなかった。それはそうだろう、奈良時代の仏師はオーギュスト・ロダンのような彫刻家とも異なるし、まして20世紀の物書きと較べようがなく、ロダンが語ったのかどうか忘れたけれど、「彫刻は命を持ちすぎる」のであり、彫刻家は短い人生の不確かな記憶より彫刻像の確かな記憶を仕事にしている。そういう仕事に賭ける仏師の魂のありようと行方が冴えないはずもなく、それに医学は祈祷と薬草、食物は恒常的に不足し、飢饉となれば大欠乏。
 
 そうした背景を鑑みれば、戦中戦後の一時期を除いて辛苦経験少ない女流随筆家の文章などは大甘。文筆家は文字を彫るのだと思ってみても得心しがたい。明治・大正生まれは気骨ある人が多く、明治生まれの白洲正子も気骨があった。が、南都の仏師など奈良時代のほとんどの人々は気骨である。
兵を率いて京都六波羅を出た平重衡が奈良街道を南下し、南都を焼討ちにしてもなお東大寺三月堂の諸仏は焼失を免れた。運ぶ僧侶も仏像も苦労したのである。明治期には廃仏毀釈の嵐にも耐えた。
 
 白洲正子は出自とは裏腹に烈女。喜多流の友枝喜久夫と交流する前から能をたしなんでいたが、家柄を過剰意識しており、評論・随筆を始めたころ小林秀雄や青山二郎から文章についてこてんぱんに言われたことに傷つき、怒り、それでも持ち前の自尊自負を強め、随筆を書きつづけ、「かくれ里」、「十一面観音巡礼」、晩年の「西行」などの著作を多数出版した。
晩年の作品は「西行」がそうであるように闊達さに欠ける。性情に反して石狩川のごとく豪快な蛇行もせず、蕩々たる流れでもなく、かといって、高低差があり変化にとむ渓流でもなく、さらさら流れる小川だ。
 
 白洲正子の著作に読むべきものがすくないのは、取材のため人を介して出会った古寺の高僧や、陶芸の匠、あるいは白川郷、湖北の人々ほかの描写がいまひとつであるからだ。蘊蓄に力をいれすぎて人物表現がおろそかになったわけのものでもないだろうに。骨董に割くほどの時間と熱意を文章に割かなかった結果なのだろうか。
 
 骨董選びは青山二郎、小林秀雄の鑑識眼を学んだのではなく、彼らの紹介もあって傑作を多数みる機会にめぐまれたことが白洲正子の眼を育てたのだろう。小林秀雄の娘が白洲正子の次男に嫁いだことを思えば、厳格な師匠との交流は悔しながら深めていったということになる。
演劇評論家渡辺保は白洲正子と友枝喜久夫の仕舞の会で知り合い、彼女の骨董眼、存在感を激賞している。が、彼女の文章に関しては言及を避けているようにみえる。東京在住の青山二郎の実家は富裕であった。青山は自宅を作家・文化人のサロンとして提供している。
 
 小林秀雄はフランスの詩人・画家・文学者についての著作が多く、彼らの人間関係や家庭の事情などに通じており、朋友青山二郎とエミール・ゾラの別荘について語り合ったと思われる。ゾラは自分の別荘を作家・芸術家のサロンとして開放した。画家、彫刻家には同い年(1840年生まれ)のクロード・モネ、ロダンがいる。
 
 古典芸能の世界には、関西にその人ありといわれた人がいる。戦中に能の片山博道(四世井上八千代の夫)との交誼を通して伝統芸能を保護育成し、戦後の不景気風が吹き荒れるなか、能楽師や歌舞伎役者を支援し、彼らの交流のきっかけをつくったのは武智鉄二である。いつだったか市川海老蔵が、「武智鉄二ってどんな人?」と先輩役者にたずねていた。
 
 武智は、勉強会という名目で坂東鶴之助(五世中村富十郎)、中村扇雀(坂田藤十郎)を能楽師の自宅に招き、仕舞、謡曲を基礎から学ばせ、「能がかり」の歌舞伎狂言を演じる足がかりとさせる。
それだけではない、文楽の名人・豊竹山城少掾を呼び寄せ、扇雀、鶴之助などに義太夫の発声を学ばせた。大功労者武智鉄二は役者を支援し、相続財産を使い果たしてしまう。山城少掾の弟子が名人・四代目竹本越路太夫である。越路太夫の語りは無類。
 
 後輩弟子の竹本住太夫は1989年に引退した四代目竹本越路太夫に稽古をつけてもらうため、JR東海道線の電車に乗って自宅を訪れる。あの住太夫でさえ越路太夫の前では小さくなる。稽古の語りは「仮名手本忠臣蔵」九段目「山科閑居」。
越路太夫の朗々たる節回し、その時代を生きているかのような名調子。義太夫語りにあれほどの差がでるとは、越路太夫を生で聞いていない者にとっては驚きの一語。「声が出なくなりましてなあ」、それが越路太夫の引退理由である。
 
 毎月、大阪日本橋の「国立文楽劇場」へ行った。義太夫は住太夫と八代目竹本綱太夫、人形遣いは初代吉田玉男と三代目吉田蓑助がよかった。住太夫はガラガラ声(対談などで自ら「悪声でっしゃろ」と公言している)だが名調子、仮名手本の段を問わず切りは住太夫でなければと思わせた。綱太夫は客席最後列までとどく朗々たる語りで常連をうならせた。
三味線は七代目鶴澤寛治、鶴澤清治。特に鶴澤清治は30代前半から13年にわたって越路太夫の三味線をつとめた。若くして住太夫の相方に抜擢された野澤錦糸の三味線も思い出深い。
 
 1993年秋、「大槻文蔵・友の会」に入会し、大阪市中央区上町にある「大槻能楽堂」の自主公演能に通った。足かけ10年に及び、月一度の自主公演以外の特別公演は割高であったけれど、流派を問わず錚々たる顔ぶれの能楽師が出演した(八世観世銕之丞、粟谷菊生、五十六世梅若六郎ほか)。不定期に狂言の会も開かれた。
大槻文蔵の会に入ったのは、大槻能楽堂は家から車なら45分ほど、電車を乗り換え地下鉄・谷町四丁目駅まで約80分で到着するということのほかに、大槻文蔵が観世寿夫の師事をうけたことにもよる。車で行くときは「難波宮跡」前にある国立大阪病院の24時間営業駐車場を利用した。駐車場から能楽堂へ約200メートル、徒歩3分弱。
 
 京都観世会館、金剛能楽堂に通ったのもそのころだ。観世会館行きは主に大蔵流狂言師・四世茂山千作の芸をみにいくためである。大蔵流でもほかの狂言師との差は歴然、千作が出てくるだけで客席はくすくす笑い。何をいい、何をするかわかっていても館内は爆笑の渦。
千作が亡くなり、笑いの後継者は三男・千三郎だろうが、品のある役づくりと笑いをさそう芸は手の内としても千作の至芸は望めず、往時の見物客も高齢となり、足を運ぶかどうか。
 
 崇徳天皇に関心を持ったのは復曲能「松山天狗」をみたからだ。崇徳院をお祀りする「崇徳天皇白峯御陵」は讃岐・坂出市にあり、2度お詣りした。最初にお詣りしたのは1995年4月初旬、小高い丘の頂上付近に位置する白峯寺の真下には桜が舞い、薄紅色の吹雪となっていた。
松山天狗の前シテは老翁、後ジテは讃岐国松山(御陵一帯の古名)をさまよう崇徳院の霊。西行はワキで、無念の最期を遂げた崇徳院をみとどける旅の僧である。大槻能楽堂で復曲能「松山天狗」が公演されたのは1994年8月27日。前後のシテは五十六世梅若六郎、西行は殿田謙吉。
 
 「松山天狗」をみたとき、平家物語「先帝身投」の二位尼(平時子)」の「浪のしたにも都のさぶらふぞ」を思い出した。辻邦生の「西行花伝」を読んだのは翌1995年。西行が胸を焦がしたとされる待賢門院璋子(崇徳院の生母)は、若いころの佐久間良子のように艶美で馥郁たる香りの女性であったのだろう。
白河上皇は孫ほどにも年のはなれた璋子をはなさず、璋子も17歳で鳥羽天皇の中宮となったのちも白河院のもとへ通う。白河院は崩御までの76年をまっとうし、璋子はその16年後の1145年44歳で崩御した。待賢門院璋子の御陵は京都市右京区花園の法金剛院の裏手にある。法金剛院の夏、ハスの花が池一面に咲く。ひときわ美しいのは薄桃色のハス。
 
   波の立つ 心の水を 鎮めつつ 咲かん蓮(はちす)を 今は待つかな
 
 西行は讃岐に流された崇徳院と和歌の送返をくりかえす。この歌は崇徳院が詠み西行に送った。贈ったというべきだが、京都と讃岐の距離を思えばなかなかそうは言えない。崇徳院は気持ちをおさえつつ西行に訴えている。
ふたりのあいだに行き交うのは過去でも現在でもない、青年と老人を瞬時に同化する魂であり、彼らは魂の通り道を歩いている、親子、あるいは祖父と孫のように。
 
 随筆も詩も文章の一形態ということからみれば、ばらばらの糸を拾いあつめ、記憶の断片をつなぎあわすように結ぶ。文章は人生の、特に幼少期や老年期の鮮烈な思いの再生産といえるのかもしれない。
老境に至ってない人が老いを書くのは、経験を仮想し創造するだけである。出産経験のない人に出産をきちんと語ることができるのだろうか。歴史的価値を学び、研究、観照を極めたとはいえ、仏師や僧の苦難を経験せず実体実相を美術史家が語ることは可能なのだろうか。いわんや随筆家においてをや。
 
 評論というジャンルを確立したのは小林秀雄といわれている。会ったこともない歴史上の人物を評にかけるのは、シェイクスピアが史実を再構成して戯曲化したのとはちがい、小林秀雄は人物をほぼ断定する。「かもしれない」などと甘いことはほとんど書かない。モーツアルトやゴッホ、本居宣長まで、みてきたようにものをいい、彼の特異な文章力に乗せられてしまう。
 
 長年みて感じることは、京都のよさは季節を問わず、しかし夏の京都が追懐にふさわしい。学生時代の思い出の地であり、結婚前の伴侶と奈良でも逢瀬をかさねたけれど、回数は京都と比較にならない。
真夏の正伝寺、正伝寺から上賀茂神社へのくちなし色をした土塀の小道、昔ながらの民家、鴨川河川敷、嵯峨野、化野、奥嵯峨、紫野、四条河原町、円山公園、東山、鹿ヶ谷。るり色や柿色、あかね色の空。重いカメラバッグを肩にかけ、行く先々で伴侶を撮影した。写真の多くはパネルになって保管されている。
 
 現住所の前の前、後輩MY君が我が家に来たとき、壁に飾ってあるパネルのうちの数枚を「ください」と言った。「パネルは贈呈できないが、同じもののキャビネ版でいいのなら、どれかひとつにしてくれないか」と言うと、MY君は笑いながら「ほんとうにいいのですか?」とこたえた。
「1枚選ぶのは難しい」とつぶやき、「それお願いします」と指さしたのが根室線の根釧原野通過後、車内で撮った「新聞を読む横顔」である。MY君は、「正面の奥さんはまた見にきます」と冗談を言う。その後まもなく梅田で再会し、MY君が連絡を取った神戸在住の後輩既婚女性が隣にちょこんとすわっていた。
 
 MY君の朋友KY君は金融機関に就職し、本人の志望で京都支店か横浜支店を配属先に選んだ結果京都支店となり、5年間京都にいた。KY君の年賀状で京都にいることを知っていたが、お互い仕事とデートに忙殺され会えずに何年たったろう、いったん東京勤務となった彼が大阪支店への転勤が決まったと年賀状に書いていた。
 
 そのころ、札幌マンションの玄関先で倒れた私は週に一度、大阪市内の医院へ注射してもらいに通院していた。札幌の脳神経外科医のみたては虚血性脳疾患。あのころは、病魔のいいなりになるものか、成敗してやるという気概があった。
注射は1年半つづき、健康体にもどったのはKY君の東京本社異動後である。帳尻は合わさねばといまごろ京都の再会をこころみている。
 
 入道雲の下で話しているような気分になるのはMK君だ。空を仰ぐとむくむくした雲が夏を知らせる。はれていても、夕立になっても入道雲はたのしい。MK君は、当人が知れば気分を害するだろうが、ふとした瞬間、法隆寺所蔵・十大弟子のうち釈迦の涅槃に立ちあったとされる七大弟子を想起させる。
MK君はそんな悲壮感を見せたことはないし、七大弟子の顔をユーモラスにすればと書きつづけると、なおさらよくない。しかし、七大弟子は見事に味のある顔だ。初めて拝観したとき、七大弟子の何体かは笑っているようにみえた。
 
 一本独鈷はいつのころからか良い意味に使われなくなった。独鈷の読みは「どっこ」ではなく「とっこ」、東大寺三月堂で年に一度、12月16日のみ公開される執金剛神が右手に持つ金剛杵(こんごうしょ)のこと、穂先の鋭い法具である。顔は執金剛神とぜんぜん似ていないが、愛嬌に満ちたMK君が毅然と立てば独鈷は合うかもしれない。
独特の節回し、うまい漫談のような間とおもしろさ、若いころ、若かった宇崎竜童にも似た面立ち。ことし5月MK君とHK、私の3人が京都で会った夜、MK君が愉快な話をした。「土曜は3倍じゃけん。OB会を土曜にやるのなら、土日しか来られない人にホテル代をその分、出してもらいましょう。」
 
 土曜の宿泊料金は平日の3倍かかるので、平日でも出席可能なメンバーの補填をさせようというのだ。口からでまかせなのだが、とりあえず土日のほうがいいと思っているHKが、でまかせと知っていて数ヶ月後に言ったものである。
「あのときMK君が話していたのは補填しろということかな」。MK君に対して好感度の高い者としては思うのは、MK君の言いようは芸術的領域に達している。芸術的と記すと茶化されていると思って、さらにいやがるだろうが。
 
 HKは内容によって、過去現在の別なくかみしめるように語る。私は現在と過去の境界があいまいになることもあり、そういうとき追体験する。追体験するのはHKも同じだろう。秀吉ふうにいえば、露と落ち露と消える身には京都のことも夢のまた夢かもしれない。暗い森の長い道を通りぬけ、明るい空を見ているのだ。森の道はもうすこしつづいている。
 
 品位を保つために気力を失うことのないよう、気無気力を蹴ちらすために品位を落とすことのないよう、もうすこし。テレビから流れる植木等の歌を聴いていた世代なのだ。「みろよ青い空、白い雲。そのうちなんとかなるだろう」。友は青い空と雲である。生きてさえいれば空の青さがわかるのだ。
 
                                     (未完)

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