Oct. 29,2018 Mon    有馬稲子、女優、86歳
 
 戦後の昭和を代表し、芝居もうまい女優は多い。映画で活躍したのは山田五十鈴、京マチ子、木暮実千代、淡島千景、香川京子、佐久間良子など。
山田、淡島、佐久間は舞台でも客をひきつけた。山田五十鈴、淡島千景の舞台は何度かみており、長年にわたり交流を深めることができた松山政路のおかげで、山田五十鈴、淡島千景の舞台稽古を作家平岩弓枝のそばで見学したのはさいわい。
 
 平岩弓枝は山田五十鈴、淡島千景、松山政路にはダメ出しをしなかった。彼らだけが原作の登場人物を凌駕しているからだ。特に淡島は稽古時すでに場の空気をつくっていた。観客が役者の呼吸に合わせてしまう芸である。
空気をつくり、客が呼吸を合わせる歌舞伎役者は三世市川猿之助(1939−)、十五世片岡仁左衛門(1944−)、十八世中村勘三郎(鏡獅子と生世話)、十世坂東三津五郎(踊り)。弁天小僧と山蔭右京(「身替座禅」)の七世尾上菊五郎。
 
 淡島は出番のない場面でも客席に陣取り、身じろぎもせず共演者の稽古をじっとみていた。その姿、魂の行き交うかのごとき横顔。淡島の代表作は数々あり、一本あげるのは難しい。
映画なら森繁との「夫婦善哉」(1955)だ。夫婦善哉の蝶子役は当初、有馬稲子に打診があったらしく、有馬稲子は現在の大阪府池田市出身で、女学校は大阪市天王寺区の夕陽丘高等女学校。身を寄せている親戚の家があった兵庫県伊丹市から宝塚音楽学校に通っており、関西弁にも大阪の文化にもなじんでいることから引き受けようと思った。
 
 しかし、蝶子はヤトナ芸者(臨時雇いの芸者)。ヤトナといっても三味線はひくし、踊りもできる。芸者の次に「おでん屋」を開く。好きな男(柳吉=森繁)には奥さんがいて、男の親に認めてもらえない役をつとめるのは困難と考え、断ったという。
 
 「断ってよかった、淡島さん(有馬稲子の宝塚音楽学校の先輩)がやってくださって大正解」と言う。
「だってそうでしょう」と有馬はつづける。「三味線って難しいんですよ」、「吹替えじゃ真実味ないし」、「20歳そこそこの女優にできますか」、「芸者するのさえタイヘンなのよ、ヤトナはもっとたいへん」。もともと差別を受けている臨時雇いは、芸に長けていないと職につけず、そうしたハラを芝居で示すのは芸達者でないとムリという意味である。
 
 「宝恷梠繧ヘそりゃもう楽しかったですよ。若かったしね」。「でも、わたしは音楽学校に合格できるようなダンス、タップダンス、音楽の素養は全然なかった。合格したのはかわいかったからかしら」。「入学してから必死でした。でもそれも楽しかった」。「宝怩退団して映画に行きました。映画はがんばっても新米あつかい。行くところじゃありません」。
「小津安二郎さんの東京暮色(1957)に出演できたからよかったの。明子は岸惠子さんの予定だったの。岸さんパリへ行っちゃったでしょ、結婚で」、「それで私に回ってきたの。笠智衆さん、男らしくて寡黙。お父さん役ステキでしたよ」。
 
 「舞台は684回やった『はなれ瞽女(ごぜ)おりん』(1980−2007)。初演は客席ガラガラでした。そのうち増えていきました。ある日、幕が下りてお風呂に入ろうとして衣装を脱いでたら、大きな拍手が聞こえてくるのね。いそいで衣装を着てセイちゃんを探したら、セイちゃんすっかりリラックスして湯船につかってるの。で、早く出てきてとせかしたら、裸じゃまずいでしょうって。ガウンがわりのバスタオル巻いたセイちゃんと舞台にもどったのよ」。
 
 スクリーンの有馬稲子はほとんどみていない。素顔は知らないが役柄から察すると天真爛漫というイメージがあり、芸でみせる人ではない。有馬稲子がおりんをやって何年経ったろう、松山政路と話していたとき「おりん」が話題になった。「みた?」と彼が聞くので「まだ」とこたえたら、政路さんは一瞬それまでしたことのない顔をした。
「フミオちゃんにはみてもらいたいな」と顔に書いてあった。みても楽屋を訪ねないのが自分らしさで、紀伊國屋ホール、梅田コマ劇場など、みても知らないふりをする。楽屋に行くのは将棋をさすためだ。政路さんは私のらしさを知っていた。
 
 会心の舞台にちがいない、みにいかねばと思った。もっとみればよかった。二度みたきりだ。松山政路は有馬稲子だけでなく、池内淳子、大空真弓、波乃久里子、川中美幸など共演した女優から「セイちゃん」と呼ばれ慕われている。
セイちゃんは下駄屋の平太郎。平太郎は途中からおりんと共に旅をする脱走兵だ。脱走を隠すため屋台を運び、下駄の修繕をやっている。有馬稲子のおりん、松山政路の平太郎は生涯の当たり役である。理不尽な差別、報われない愛を芝居にした不朽の名作。
 
 当たり役と決めるのは本人ではない、みる者が決める。俳優が役の人生を生ききったと思うのは勝手だ。そう思えるほど懸命に、いわば死力をつくして演じたのだろう。だが、うまい下手は懸命さとは別ものである。
芸は先天性のガラ、後天性のハラとの産物であり、後天的なハラは言わず語らず相手に伝える精神的指針の産物だ。力みすぎると芝居はつぶれる。賭けるべきは死力ではない、客の心に伝えるべき役者のハラなのだ。
 
 目は見えない、わるい男につけこまれる、苦労に次ぐ苦労。だが、かわいく健気で正直な女。絶品だった。有馬稲子はおりんの人生を生きている。そういう「おりん」を温かく見守る平太郎。いま、おりんと平太郎をうまくやる役者はいるだろうか。
 
 「有馬稲子 語るエッセイ〜良寛さまと貞心尼」は2018年10月28日14時〜16時、兵庫県宝塚市ソリオホールでおこなわれた良寛と貞心尼の物語は、良寛の生い立ちに始まり、修行時代から晩年までの功徳。庶民のなかに溶けこんだ良寛に偉ぶったところは微塵もない。場面々々で良寛が詠んだとされる短歌や詩も数多く紹介された。
 
 きわめつきは良寛70歳、貞心尼30歳の歌の交換だ。貞心尼も良寛も互いに丸一日歩いて(早朝から夕刻)庵にたどりつき泊まっている。「年の差なんて関係ありませんね」。知ったかぶりして述べると、独身時代、有馬稲子は17歳年上で妻子ある映画監督と恋におちた。
 
 1964年の映画「東京オリンピック」総監督がその人物だ。彼女の近著「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」(2018年6月発刊)は、2020年東京オリンピックの話題に併行するかのように上梓された。編集者の狙いはそこにもあるだろう。功徳になるかどうか不明として、有馬稲子が信頼している人間に口利きしてもらい、彼女を口説くのも編集者の仕事。
 
 蘊蓄好きはいるもので、美術館や古寺を見学するにしても下調べ2時間、鑑賞15分という按配。そういう人に向けて有馬稲子の芸名の由来を。
「有馬稲子は二代目で、音楽学校入学の1948年に知らされました。気に入らない芸名でしたが、百人一首の『有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする』にちなんだ名とわかって好きになったの」という。猪名は兵庫県川西市から伊丹市へ流れる猪名川、有馬山は摂津国風土記にも記されている有馬温泉。
 
 大物女優が自ら人生を語る。そういう時代はもうやってこないだろう。なぜか。未来に大物の輩出は望めない。現在をみれば理由をいわずにすむ。昔は死ぬまで女優という大物がいた。が、存命中の大物女優を除いて姿を消した。あるいは高齢のため語る機会を逸した。時流に乗った若手は蓄財して引退というケースが増えつつある。
 
 左甚五郎のサルを決め込み、墓の下まで持っていくという人生はある。実はと言い出す人間があらわれても傍聴席にいるのは週刊誌テレビの記者とレポーターだけ、実証も反証もできず、証人は永遠に来ない。
有馬稲子の愛称はネコちゃん。きちんとものいう立派で確かな人物である。確かな芸をみせ、かわいい女優の最終ランナーは十朱幸代だ。
 
 「恋していると若くいられる」と有馬稲子。女は特にそうでしょう。恋多き女の代表格は宇野千代だろうか。そして瀬戸内寂聴。貞心尼とタイプはちがうが、尼僧という点で共通している。
「寂聴さんも貞心尼さんを書いています、貞心尼さんの実像はよくわかりません。40歳年長の男と浅からぬ交流をかさねる。残っている史料を読んで想像するだけでも、なんかちがう。寂聴さんは恋愛の達人、目のつけどころもちがいます」。
 
 恋愛の達人と聞いたら、百歳近い(96歳)寂聴さんは小躍りするのではないか。色事の達人と言えばもっと喜び、嵯峨野の寂庵を飛び出してくるかもしれない。
 
 有馬稲子は横浜の高齢者用ケア・マンションに住んでいる。住人は「500人ほど」だそうだ。その体験を講演で話す。「本をいっぱい読み、まかない付きでも週に何回か料理して、料理の腕はいいのよ」。夜はテレビをみて時事を知り、「最近の政治は困ったものね」と講演で具体的に言及する。有馬稲子、86歳、現役である。

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