Oct. 26,2018 Fri    きみ知るや古都の日々(1)
 
 あれは誰であったか、「人は知らないものを深く愛することができる。しかし愛さないものを深く知ることはできない」と言ったのは。
 
 2018年10月半ば、奈良で待ちあわせ京都に向かう道中だったか京都の料理屋だったか、「出かけるのはいつも京都、奈良ばかり。飽きもせず行くよねと息子に言われた」とHKが言っていた。古都に関心のない人であれば「むべなるかな」だ。
 
 50年来の友と共有する話題の大半は京都奈良である。というのは100%の大半ということで、もうひとつ100%が存在し、その一部は過去の女性の話だった。
が、このところHKが口にするのは奥方への感謝であり、談笑時間の3割、奥方が登場するようになった。語りながら奥方のありがたさを確認するというふうでもなく、感謝したいという心身の状況が整ったのかもしれない。友情も愛情も瀬戸際になれば、もしくは越えれば熟してくる。
 
 この5月、MK君も加わって洛中洛外を散策したとき、北野天満宮のアルバイト巫女の件を私とMK君から散々言われたことをおぼえていて、言えばまた言われると思ってはいないだろう。それからまもなくHKは白内障の手術をうけ視力も回復した。忘れたころに女性の話をするのがHKのらしさであり、HKのスタイルであり、ユーモアの発露だ。らしさを失えばその人の存在もぼやける。
 
 伴侶は2005年10月以来、京都で5回、金沢で2回HKと会い、会食の回数、会話の時間が多いのでほとんど話題にならない。私は常々伴侶に感謝し、その時々に感謝のことばを口にしている。そのわりには長生きできないだろうとつぶやき、伴侶のひんしゅくを買っている。
HKは謝意をことばにして奥方に伝えているのだろうか気になる。HKなら、仮に長生きできないだろうと思っても奥方には言わない。波紋を呼ぶような言動は避けるだろう。波紋は池のことではない、剣である。危険なのだ。
 
 刀鍛冶は二人いる。刀を支える者と打つ者との呼吸が合わなければトンチンカンという音がする。二人のイキが合えばヘンな音はしない。会話がはずむのは互いのイキが合うからだ。
 
 京都奈良は永遠の都。永遠と思うのは、鎌倉や東京、大津京とちがって残されるべきもの、今後も残されつづけるであろうものがいっぱい残っているからだ。それだけではない、色とりどりの追懐と清々しい残像にふちどられているからだ。そこに立っていなくても、鮮明に記憶され映像化された風景、人物がよみがえる。
そして京都奈良は造形美術の宝庫だ。質量とも圧倒的である。傑作と定評のある仏像・建築物のほとんどは京都奈良にあり、「薬師寺雑感」(1959)に加藤周一が記した「鋭い眼が傑作を発見するのではなく、傑作が眼を鋭くするのである」という文言も納得できる。
 
 幼稚園に通っていた昭和29年夏休み、母に引っぱり出され吉野金峯山寺へお詣りした。山岳信仰は母の永年のテーマだった。テレビでみることもなかった吉野は山陰地方の山奥ほど鬱蒼とした森も少なく峻険でもなかったが、朝夕の霞が濃く、行者の出てきそうな気配があった。1954年ごろの交通の便はわるく、パズルのように電車を乗り換え、疲れはてたころに到着。宿坊ではなく古民家に数日泊まった。
 
 吉野は都でないと思う方々、吉野は奈良時代以前から吉野宮と呼ばれ、大海人皇子(天武天皇)が入り、「壬申の乱」の戦にそなえたのは吉野宮である。南北朝時代、後醍醐天皇が都落ちし再起をはかったのも吉野であり、皇子や天皇の復活の地、あるいは蘇りの里だったのである。
 
 Mさんの新婚時代、配偶者の勤務地が大阪支店であったのをさいわいに奈良公園から徒歩圏内の借家に住んでいたという。3年後輩のNYさんご夫婦が若いころ訪問し、そのことを後年(2007)話していた。遠出しなくても日帰りで、散歩がてら古寺拝観するという環境はMさんにとって何ものにも代えがたかったにちがいない。
そのころ(1976)夢にでてくるMさんはなぜか奈良の古民家に住み、私がたまに行くと住環境がたまらないという顔をして、しかし一緒に行こうとは言わなかった。意気上がらない私を見て、「ひざ枕しようか」と言った。やわらかい感触、かぐわしい香り。
 
 20代前半Mさんが語っていたのは、法隆寺の仏像、東大寺戒壇院の仏像などである。東洋美術史を専攻していたから卒論は古代インド仏教美術、特に現在のパキスタン、アフガニスタンの仏像に関してである。
奈良公園を散策し、好きな時間に東大寺戒壇院や法華堂の仏像と対面していただろう。昼どき、家にもどるのが面倒な場合、日吉館そばの「下々味亭」(かがみてい)でおいしい日替わり定食を食べていたかもしれない。
 
 10月半ば、HKとともに拝観した奈良市忍辱山町の円成寺を初めて訪れたのは1968年8月下旬である。合宿先の日吉館から円成寺までの片道10キロを徒歩で往復した。春日大社から円成寺までの約10キロは古来「滝坂の道」と呼ばれ、物流の道だ。
春日大社から柳生の里まで19キロの柳生街道が全国に名を知られるきっかけとなったのは大河ドラマ「春の坂道」である。1970年、「滝坂の道」は東海道自然歩道に指定されたが、京阪神在住のハイカーのほかに関心を示した人は少なく、翌年大河ドラマにより全国区となった柳生街道に較べると知名度は低かった。
 
 大河ドラマ以前と以降で何が変わったのか。沿道と過疎の村が心ない観光業者と客によってスラム化した。そのころの観光業者と客の一部は現在のチャイニーズとほとんど同じ、比肩すべき者のないマナーのわるさだった。
そのときである、時の円成寺住職・田畑賢住師が拝観制限に踏み切ったのは。師は「ついでに拝観に立ち寄る方おことわり」と記した掲示板を設置した。痛快としかいいようがない。
 
 山辺の道には数々の思い出がある。1980年代10月中旬、ハイキング仲間20数名と歩いた。コジマさんが沿道の柿をかじり、畑に向かって断片を吹き飛ばした直後、年長のハマノさんの言ったことば。私たちは柿の木に実がなっているのを見ただけで、コジマさんが柿を採ったことを知らない。うしろのほうでギャーという叫び声がして振り返ったのである。
 
 「コジマ、おまえなあ、シブガキいうことも知らんかったんか」とハマノさんも叫んだ。文言だけなら強い口調に思えるかもしれないが、言い方は茶目っ気たっぷり。渋柿でゆがんだコジマさんの顔。
 
 同日、甘樫丘に上り、すぐさま山辺の道に向かった。かなりの距離を歩き、お昼前の空腹はひとしおだった。稲刈りの終わった畑に坐って弁当を食べていたらポツポツ降ってきた。首でカサを支えながら食べた弁当の中身は忘れたけれど、コジマさん、ハマノさんたち数人が立って弁当を食べていた光景は忘れられない。
コジマさんは、渋みが口内に充満して味がわからないと弁当に文句を言っていた。それだけではすまない、寝床につくまで渋みが口内に居残り、不快感はきわまる。経験者にはわかるだろう。
 
 次に山辺の道を歩いたのは1999年春だった。前年(1998)秋、紀伊半島に上陸した台風7号により倒れかけた杉の大木が室生寺五重塔を直撃し、五重塔屋根は崩れ、塔も傾いた。さいわいにも全国から浄財が寄せられ、1999〜2000年、修復工事がおこなわれ五重塔は復元される。
山辺の道を歩く前に大神神社のご神体である三輪山に登った。登山口手前の小さな受付にいた白衣紫袴の権禰宜が入山料を払ってくれと言う。何円かの掲示はなくお供えということで、4人分3000円払ったと記憶している。金額は義兄が決めた。大きな態度の権禰宜は不満気だった。
 
 登山の道中、義兄は「感じがわるい。なにが入山料だ、ネギのポケットに入るだけじゃないか」と言い、義姉は「ゴンネギ」と訂正。義兄は権禰宜と認めず、畑のネギと言いたかったのだ。狭い登山道には倒木が点在していた。「倒木はあるが、道をふせぐほどではない」とゴンネギは言っていたけれど、道の邪魔になる倒木もあった。
「ゴンネギめ」と義兄はいまいましそうに、しかしおどけて言った。義兄は荻窪育ちの東京人。頂上付近は茶系の痩せた木立におおわれ見はらし0点だが弁当を開き、それから山辺の道を景行天皇陵まで歩いた。
 
 話は前後する。コジマさんの渋柿と同じ日の出来事も懐かしい。その年の春、古事記の勉強会をやった。誰だったか景行天皇陵で、ヤマトタケルのお父さんでしたねと言う。ハイキングに来た人の半数は勉強会に参加している。その方たちは、うんうんという感じで頷いた。するとタノさんが、「これくらい広いとアレやれるわ、ソレ、ボール使う天皇のゲーム」と言った。
 
 一瞬考え、「ソレって蹴鞠のこと?」。「そうともいう」とタノさん。瞬時に1968年、古美術研究会・建築班同期の井川三郎を思い出した。井川も天皇のゲームと言い、けまりのことかと問うと、「そうともいう」とこたえたのだ。信じられないような話だが事実である。
あとになってわかった。20数名と山辺の道を歩いたころ、神戸新聞入社後の井川は病床に伏していた。HKと古美研(当時)随一の美男美女はという話をしたとき、HKは井川をあげた。私は藤咲博久(2011年11月3日「絵画班チーフ藤咲博久」)の名を口にした。
 
 「井川は堂々と関西弁で話していた」とHKは言った。自分にないものを井川は持っていると顔に書いてあった。「そうともいう」と言ったときの井川独特の調子と間、愛嬌は才気煥発そのものだった。
藤咲は骨格がしっかりしていて、バタくさい面立ちの苦み走った男、井川は色浅黒く、彫刻刀で彫ったような深い顔。ふたりともスポーツ体型だった。しかし外見はアテにならない。井川が旅立ったのは景行天皇陵けまりの数年後である。
 
 京都の思い出は尽きない。数え年13歳のとき、何月か忘れたが母に連れられ嵐山の法輪寺にお詣りした。十三詣りである。京都人には欠かせないとされる行事だ。法輪寺本尊の虚空蔵菩薩が13番目に誕生した「智恵」の菩薩に由来するという説がある。
嵯峨野方面に向かって渡月橋をわたるさい、後ろを振りかえるとお詣りの効力を失うそうだ。振りかえるなと母に言われたような気はする。が、振りかえらなかったかどうか記憶は消えている。
 
 京都へ頻繁に行ったのは昭和56年(1981)から昭和63年にかけての7年間である。7〜8月の真夏と1〜2月の真冬を除き多いときは毎週、少ないときでも毎月行った。当初の2年は従兄と私が案内役、その後の5年はほかのスタッフと共に。
 
 詩仙堂は何度行ったかおぼえていない。ある日、詩仙堂が好きだった従兄とふたりで行ったことがある。従兄は緋毛氈を敷いた縁側から庭に降りて鹿おどしのあたりまで行き、そこでしばらく立ちどまっているのが常だった。そのときもそうして縁側のほうへもどろうとしたら、縁側を降り下履きサンダルをはこうとした男性が顔を上げた。加藤周一だった。
 
 「アッ」と小さな声を発し呆然とする様子を見て従兄は怪訝な顔をした。そんな私たちを見て加藤周一はにっこり笑った。NHKの番組に出演する以前だったから顔を知る人はほとんどいない。それから3週間も経ったろうか、再び詩仙堂の庭で加藤周一に会ったのは。渋い色のジャケットに前回と色ちがいのタートルネック・セーターを着ていた。
私の驚き顔をおぼえてくれていたのかにっこり笑い、私も笑った。加藤周一の作品はぜんぶ読んだが、最も鮮明なのは心をとらえる笑顔と目だ。加藤周一がどこかに愛嬌と記している。軽妙洒脱という上等な和菓子に黄金の粉をまぶす。愛嬌は加藤周一特製の魔法の粉である。
 
 詩仙堂から帰宅した翌日、わずかな日数のあいだになぜ2度も加藤周一と出会ったのか気になって調べた。当時、加藤周一は立命館大学の客員教授として教鞭をとっていたのだ。エッセイか新聞の寄稿文かに詩仙堂のことを書き記している。従兄同様、加藤周一も詩仙堂贔屓だった。
立命館の講義ノートは朝日ジャーナルに連載後、上梓された。「日本文学史序説」である。特に美しかったのは平安貴族と平安朝文学についての文章だ。
 
 加藤周一生前か死後かおぼえていないが、出版社かどこかのプレスが「知の巨人」と命名したことは承知している。現在もその呼称をつけて加藤周一論を上梓する者がいる。知らない人は「知の巨人」の大文字を目にする。買うかどうかわからないとしても。
ダンテやエラスムスじゃあるまいし、若いころならいざ知らず、いや、年代は関係なく、どう考えても面はゆい。知らないことがいっぱいあった。知的好奇心を追究しているうちに巨大な知の壺に入りこんでしまった。「知の巨人ここに眠る」などと古代エジプト王顔負けの墓碑でも立てられようものなら、おちおち眠れやしない。
 
 加藤周一を追懐すると三島由紀夫のことを、シェイクスピアを思い起こす。三島は自決直前、息子を連れて京都の定宿に泊まった。京都行きは「金閣寺」執筆以来常習化する。三島は生涯を通して日本文化と伝統を重視した。根底に天皇家崇拝があったかは別稿に譲る。
東京大学入学以前から三島が「歌舞伎ノート」を書いていたのは周知のごとくで、1969年11月国立劇場において上演された新作歌舞伎「椿説弓張月」の台本を書き、当時19歳の坂東玉三郎を世に出したのは三島由紀夫である。
 
 しかし歌舞伎に関する三島の真骨頂は滑稽味満載の「鰯売恋曳網」(いわしうりこいのひきあみ)だ。三島由紀夫29歳のおり(1954)「演劇界」11月号に掲載され、同年歌舞伎座で上演されたこの狂言は、三島が贔屓にしていた6世中村歌右衛門、17世中村勘三郎がそれぞれ蛍火、猿源氏をやった喜劇である。
三島がめざしたのは、俗っぽく溌剌として人情味のある元禄歌舞伎の復活だった。蛍火は京都東洞院の遊女、舞台は五条大橋からスタート。
 
 玉三郎が蛍火、18世中村勘三郎が猿源氏をやった大阪松竹座は忘れがたい。勘三郎の芸は抱腹絶倒、玉三郎が登場した瞬間、舞台はパッと明るくなり、蛍火の美しさと色気が客席にこぼれ落ち、満杯の客は息を飲んだ。
 
 初期の三島作品には歌舞伎台本や「夏子の冒険」がそうであるようにユーモアをまじえたものもあり、三島はシェイクスピア戯曲に出てくる吟遊詩人をほうふつさせた。
だが月日の流れに合わせるかのように愛嬌は影をひそめ、笑いも消えていった。そして天才の衝撃的最期。三島由紀夫は豊饒の海「春の雪」発刊後、熟した甘柿が落ちるように旅立ち、著作は後世の福音となったのだ。
 
 後悔の念にさいなまれるリア王は枯れ野をさまよう。深刻な舞台におもしろ味を足す道化はリア王に慰めのことばを言いつつ、王を見くだしている。シェイクスピアは権力のむなしさと民力のたくましさを寓話化し、悲劇と喜劇のはざまに横たわる懊悩を芝居にした。
さいわいというべきか死者に後悔なし。三島の死を悔やむのは生者である。文学は女々しさを至高まで高めることによって後世に残る。歴史は雄々(おお)しさを好むであろうが、女々しさのない男はいない。愛する女が振りむかねば英雄も嘆く。
 
 女々しさが表に出るか出ないか、それが問題である。女々しさを表に出さず内奥に向かって吐き出し、平静を装う男に男らしさを見るのはある種の約束事だ。
若い女が女々しい男を受けいれがたいのは、そういう男は簡単でわかりやすいからだ。若かった女は老境に入って、難しい男は疲れる、わかりやすいほうがいいと思う。愛嬌を失う前の三島なら笑って言うだろう、「何事があっても平静でいられるのは単なる鈍感にほかなりません」。
 
 三島由紀夫、加藤周一は王に追従しない飛びきりの吟遊詩人である。吟遊詩人の口から何が飛び出すか待ちうけているのは王たる市民である。
彼らの詩は人生を高め、人生は詩を高めた。「人生はボードレールの一行にも若かないかもしれない。しかしボードレール全集もまた、愛する女との一夜に若かないだろう」と加藤周一は述べている(「中村真一郎、白井健三郎そして駒場」 1998)。人生が詩を高めるゆえんである。
 
                     (未完)

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