Oct. 20,2018 Sat    ミステリードラマ(3)
 
 あれは誰がいったのか、「見るは一時の損。見ざるは一生の損」と。テレビ放送されたミステリードラマは劇場公開映画とちがって自宅でみることができる。いなければ録画してみればいい。番組選択権を配偶者に奪われている男は別として。
 
 歌舞伎演目(歌舞伎狂言というと間違う人もいるので)や、役のみどころを詳しくわかりやすい文章で解説し、幾冊もの名著を上梓した演劇評論家・渡辺保は知る人ぞ知るミステリーファンで、「修道士カドフェル」(NHK)や「主任警部アラン・バンクス」(WOWOW)についてどこかで述べている。
 
 歌舞伎狂言には外伝なるものがあり、幽霊となった岩が民谷伊右衛門に復讐する「東海道四谷怪談」は「仮名手本忠臣蔵」の外伝である。民谷伊右衛門は塩谷家(赤穂・浅野家)浪人。四谷怪談の作者・四世鶴屋南北は悪人を主人公にしてスリラーとホラーを表現した。悪人は滅ばされるが、滅ぼすのは民でも官でもない、天である。
 
 江戸末〜明治期に歌舞伎作家として活躍した二世河竹新七、後の河竹黙阿弥も「弁天小僧」や「三人吉三」、「十六夜清心」など悪人が主人公の台本を書く。弁天小僧は五代目尾上菊五郎にあてて書いた。必ずしも原作を必要とせず、実力と人気を兼ねそなえた歌舞伎役者のために書くというのが台本作者だったのである。
 
 単純なストーリーではおもしろくない、結末の読みにくいミステリー仕立てにして、最後はどんでん返し。われわれ同胞は江戸期の昔からどんでん返しが好きなのだ。台本作者は庶民の要望にこたえねばならない。
 
 それはミステリー発祥の地のミステリードラマにもいえる。アガサ・クリスティー作「ポワロ」や「ミス・マープル」の一部もそうであるし、「主任警部アラン・バンクス」、「刑事モース」のシーズン後半など、脚本家が原作なしでドラマを創るのだ。うまい役者はいる、視聴率も高いとなれば筆も走る。
 
 役者にあてて書くという手法は現在も生きている。さすがに歌舞伎とは異なり天が悪を滅ぼす脚本は稀少。市民運動がめばえて以来、政治的解決を好まない英国人気質は、政治介入を苦にしない米国人気質と相反し、武士が市民に化け行動をおこすことで溜飲を下げる江戸期庶民の気質に近似する。自力か他力かの違いはあるが。
真相解明をなおざりにし、お茶を濁して終了という解決は解決にあらず。英国の刑事がそんなことをしたら誰もミステリードラマをみない。そんなものをみるのは政治家と官僚、御用記者だけだろう。
 
 吉田羊とか笑福亭鶴瓶のようなダイコンをあてるなら、「みる目のある者みるべからず」と記した掲示板を用意すべきだ。彼らには役のハラができておらず、みえみえの演技だけが目立つ。日本発のドラマに進歩なく、おもしろ味もないわけで、評にかからない俳優を評にかけるのは埒外である。
 
 2012年3月12日の「友+ダイエー館同窓会」(書き句け庫)にも記したのであったが、1981年1月ごろ駆け出しだった鶴瓶は水面の魚、口をパクパク開けているだけで話術のかけらもなかった。その後も落語のできない落語家だったが、いつのまにか顔が売れていた。話術は以前と較べて進歩はない。
大阪のおばちゃん然とした鶴瓶の風体とものいいが視聴者に近いからウケている。アマチュアリズムの台頭である。しかしそれが芸だろうか。話芸とはその程度のものなのか。比較すべきお笑い芸人が関西にいないのも問題である。西条凡児、上岡龍太郎のように話芸で大衆を魅了した芸人がすがたを消して久しい。
 
 そうした傾向は芸能界にかぎらず、各界で顕著になっている。相撲界をご覧じろ、北の湖、千代の富士、貴乃花、隆の里、武蔵丸などが群雄割拠した時代、相撲はおもしろかった。彼らには強いライバルがいた。
 
 野球界にも名勝負があった。優秀な投手は多数の好打者を押さえて20勝以上あげた。邦画界には大映、松竹、東映、東宝、日活それぞれを代表するスターや名脇役がいた。新劇からも名優が輩出した。
往時の俳優は記憶のなかに生きている。現在、記憶に残るかもしれない俳優が何人いるだろう。ほとんど総崩れではないか。一瞬の表情、なにげない目に人生の哀感がただよう俳優がいなくなった。
 
 目で演じられるようになれば立派なものである。目は口ほどにものをいう。ちょっとした目の動きにうまい下手が出る。「フランス組曲」でミシェル・ウィリアムズがドイツ軍将校のコートのポケットを探るシーンがある。目はさりげなく周囲を見ている。誰かに見られたらまずいからだ。だが神経は指に集中している。
そうしたシーンを日本の俳優がやるとどうなるか。周囲を見る目力が強く、指にも力が入って芝居にならない。ダイコンは凝視する。学芸会なみの俳優はというと周囲をまったく見ず、ポケットだけを見て大げさに手探る。
 
 時代劇は演者にとっての正念場。密約、はかりごと、事件解明などに自らの人生を賭ける場面は、言わず語らず相手に伝えたい、あるいはわかってもらいたいというハラが要る。それを目で訴える。ときには気配で訴える。そうした場面のしぐさは短いほど効果は上がる。
が、短いからといって散文的であってはならない。笑福亭某、吉田某がそういうハラを示し、目で訴えることができたろうか、できるだろうか。言及しても事態は変わらず、もの言えば唇寒し。
 
 うまい役者は、歌舞伎なら十五世片岡仁左衛門がそうであるように、館内の空気を動かす芸を持っている。水を打ったような静けさをつくったり、客の目を釘付けにする芸である。「ええ天気やなあ」と役者が空(3階席)を見上げれば、青い空が見えてくるような芸である。
リア王をやるシェイクスピア役者なら、立っているのは舞台なのに、茫漠たる荒野をさまよっている気分にさせる芝居である。しびれる芸をみて、客は舞台に枯れ野を見るのだ。
 
 よくできたミステリードラマの主人公は一瞬のひらめきで推理し、未来を拓く。荒野にさしこむ一条の月あかりである。私たちが主人公の探偵や刑事に頼らず推理するとき直感が活躍の場を見いだす。直感にかすかな疑念が生じれば、あらためて解決の糸口を探す。難解なミステリーほど推理のしがいはある。映像のなかの謎解きに自分も入ってゆく。
           

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