Oct. 08,2018 Mon    ミステリードラマ(2)
 
 なぜ米国のミステリードラマはつまらないか。米国人は殴り合い、撃ち合い、車の追いかけごっこがないと納得しない。ノンストッ・アクション映画であればそういうシーンは多い。が、ニューヨークの刑事・警官も毎日、毎週殴り合い、撃ち合いがあって、その上、酒は食らうわ女は抱くわでは身体が持たない。
 
 パワフルで精力旺盛な街の英雄。要するに米国人は無類の体育会系スーパーヒーロー好きなのだ、柔道三段、空手四段の機動隊員のような。したがって英国で大ヒットしたミステリードラマは米国では受けない。
 
 ドーセット州ブリッドポートをロケ地とした「ブロードチャーチ」、前回の「ミステリードラマ」で述べた「主任警部アラン・バンクス」、「刑事モース」、あるいは「刑事フォイル」など、ミステリーの名作は殴り合い、撃ち合いが極度に少なく、解決まで時間がかかる。米国人の性急という国民性が後押しするのか、推理のプロセスを楽しまないというわけである。
 
 ミステリーにかぎらず俳優にとって米国製作のドラマは楽だ。役作りに工夫は要らず、脚本もストーリーも単純、演出はお粗末、音楽はでたらめ、主演も共演者もヘボ。ヘボだらけでバランスがとれている。。
本邦のサスペンス劇場と較べても目くそ鼻くその世界である。スポンサーもスポンサー、よくもまあCM料を払う気になるものだ。法律で受信料を受け取る権利を有する放送局が本邦にあれば、それなりの番組制作を講じてしかるべきである。
 
 
 ダイコン役者でもごくまれに地中から這いだし、陽のめを見ることはある。再三ダイコンの代表として槍玉にあげたトム・ハンクスは映画「ダ・ヴィンチ・コード」(2006年 米)で記憶にまちがいがなければ一度もにやけなかった。ほかの映画なら必ずにやけるのになぜ。
理由は簡単明瞭、イアン・マッケラン、ポール・ベタニーなど英国俳優、オドレイ・トトゥ、ジャン・レノ、ジャン・ピエール・マリエールなど仏俳優にまじってダイコンぶりを発揮すると、みる目のない観客にさえダイコンとわかるからである。にやけるヒマはない。ここは集中しなければ。本人も肝に銘じたことだろう。
 
 役者がダイコンと呼ばれるのは、せりふ回しがよくないことにもよるが、ムダな動きが多いことによる。それは表情にも及び、たいしたこともない自前の顔をこしらえ、鏡を見ても泰然自若、そのままカメラに向けるのでどうしようもない。録画をみたことがあるのだろうか、顔から火が出なかったろうか。
目は口ほどにものをいう。目で演じられるようになれば立派なものである。ちょっとした目の動きにうまい下手が出る。うわ目、伏し目をさりげなくやる。映像をきちんとみていないと見逃すような短いしぐさほど効果はある。ダイコンは凝視する。
 
 英仏ベルギー合作映画「フランス組曲」(2016年 日本公開)の主人公リシュルをやったミシェル・ウィリアムズがドイツ軍将校のコートのポケットを探るシーンがある。ポケットに入っているかもしれない何かを指でさぐる。目はさりげなく周囲を見ている。人に見られてはまずいからだ。だが神経は指に集中している。
そうしたシーンを日本の俳優がやるとどうなるか。周囲を見る目力が強く、指にも力が入って芝居にならない。学芸会並みの俳優はというと、周囲をまったく見ず、ポケットだけ見て大げさに手探る。
 
 米女優ミシェル・ウィリアムズは「フランス組曲」で新境地を拓いた。出演作でみたのは「シャッター・アイランド」、「マリリン 7日間の恋」のみだ。彼女はモンローのかわいい部分をこなしており、しかし、ここぞというときの引き立て役は英国俳優ジム・カーター(「ダウントン・アビー」の執事)である。
ミシェル・ウィリアムズが「フランス組曲」で会得したものを先で生かせるかどうか、彼女に合う作品のオファーがあるかどうかは未知の領域だ。
 
 ムダな動きはメリル・ストリープの特典である。元英国首相をやってオスカー主演女優賞を獲ったときはびっくり。
受賞させる意図が組合にあったとか、圧力がかかったというならともかく、大統領に負けず劣らずわがもの顔の米国プレスは、目も白内障・緑内障の度が増し、ほとんど盲目。映画賞審査はお遊び。メリル・ストリープの芝居も年々粗くなり、どさ回りの芸人みたいになってきた。
 
 資源大国といっても、経済界にムダな動きが多かったら米国の経済発展はこれほどまでの規模に至っていないだろうに、急成長の反動なのか、金持ちの特権なのか、権力の座に居座りつづけた弊害なのか大雑把。芸術芸能などの分野でモノを見る目はない。大雑把だから居座りつづけられるという見方があるかもしれないが。
 
能、歌舞伎にムダな動きがほとんどみられないのは時代をへて練り込まれているからだ。そういうことに関係なく歌舞伎人口は微増。カブキガールと呼ばれる方々が一役買っている。しかし、ガールはとかく飽きっぽい。
 
 「ダ・ヴィンチ・コード」の成功は歴史ミステリーであったからだ。イエス・キリストもマグダラのマリアもテンプル騎士団も未解明の謎につつまれている。逆説的ないいようであるが、史実は証明できたからおもしろい場合と、できないからおもしろい場合とがある。できない場合、想像力と応用力が活躍の場を見出すのだ。
 
 話はそれだけではない、恋愛ドラマにしても単に男女がいちゃついているだけならおもしろくもなんともないだろう。ミステリーの要素があるからおもしろくなる。
数年前から断続的にWOWOWで放送されている米国ドラマ「アフェア 情事の行方」は出色の恋愛ミステリーである。脚本、演出もよく、ルース・ウィルソンのうまさが突出している。ドミニク・ウェストもうまい。主力ふたりは英国俳優、共演者(米国)も気合いが入ってエンジン全開。
 
 本邦のミステリードラマが絶望的なのは、ミステリーでないからである。役柄の人間の生き方、考え方を読めず、人生を表現せず演技だけする。役柄の背景にある人間独自の生き方を深くみつめるべきなのだ。
演じる者もみる者も「なりきる」ときいたふうなことを言って平然としている。それで通用するなら言うことはない。「なりきる」と思える人間の人生がそれだけのものであるということだ。そんな俳優が掃いて捨てるほどいる。或るシーン、一瞬の表情に人生の哀感がただよう俳優がいなくなった。
 
 かつて「コールドケース」というドラマがあった。未解決殺人事件(コールド・ケース)に挑むミステリーで、米国のドラマにしてはよくできていた。主演の女性刑事リリー役キャスリン・モリスの魅力、共演者のうまさに惹かれた。リリーの清々しくも毅然たるすがた、美しさ。
それを日本がパクるとどうなるか。WOWOWの連続ドラマ「コールドケース」の主役は吉田羊である。形相すさまじいだけで美しさに欠け、コールドケースを解明するというハラもなく演技過剰、とみる前にわかっているからみない。配役で制作側の意図はおおよそ見当がつく。
 
 人が迷ったとき、もがいたり苦しんでいるときどういう表情になるだろう。苦悶が何日も顔に出たままだろうか。食事中や入浴中、トイレのなかでも苦悶し続けるのだろうか。演技はそんなものだと思うならみないほうがいい。
鹿ヶ谷の俊寛にしても、史実とされる事件が事実であったとして、陰謀をめぐらすことのみに専念したわけのものではないだろう。藤原成親に対して「これはおたわむれを」とざれ言のひとつも叩いたのではないだろうか。
 
 必死になっても、追いつめられても、冗談を言ったりするのが人間である。捜査や推理に集中しても、行き詰まっても、狂人にならないかぎり人は軽口を叩く。緊張の連続はしんどい。時には呆然も悄然もある。英国とちがいユーモアの少ない米国発ドラマの登場人物でも緩い表情をするのだ。本邦のミステリーは愉悦少なく、哀歓とユーモアの表出もヘタ。そういう意味において日本発のミステリーは絶滅状態。
 
 関西系お笑いプロダクション所属などのダイコンは自分たちにしかウケない楽屋話をテレビに持ち込み悦に入る。芸がない。その代表格は笑福亭鶴瓶。ドラマでは役のハラができておらず、みえみえの演技だけ目立つ。そういうダイコンをほめる評者もいて、評者の質はハリウッドの御用記者と五十歩百歩、お先棒を担ぎ評を持ち上げる。
その調子で日本アカデミー賞とやらの受賞者が決まる。邦画、日本製ドラマが進歩なく、おもしろくないわけだ。ドラマをみる側にも問題はあるけれど、言及したところで事態は変わらない。モノ言えば唇寒し。
 
 ミステリードラマ出演後羽ばたいていった俳優は多い。英国ドラマ「刑事フォイル」からジェームズ・マカヴォイ(「第1話「ドイツ人の女」 2002年)、ロザムンド・パイク(同「ドイツ人の女」)、エミリー・ブラント(第2シリーズ第3話「作戦演習」 2003年)、アンドリューー・スコット(第6シリーズ第3話「反逆者の沈黙」 2010年)。
 
 「名探偵ポワロ」からポリー・ウォーカー(第2シーズン第11話「エンドハウスの怪事件 」 1990年)、ケリー・ライリー(第9シリーズ第51話「杉の柩」 2003年)、エミリー・ブラント(第9シーズン第51話「ナイルに死す」 2003年)。
ジェームズ・ダーシー(第10シーズン第54話「青列車の秘密」 2006年)、マイケル・ファスペンダー(第56話「葬儀を終えて」 2006年)。
ゲストとして名優イアン・リチャードソン(名作ドラマ「野望の階段」の主役 1990年)、タラ・フィッツジェラルド(映画「ウェールズの山」 映画「ブラス」 チェコとの合作映画「ダーク・ブルー」のセックス・アピールとはひと味ちがう、控えめなのに妖艶なタラ・フィッツジェラルドがステキ)、エドワード・フォックス(映画「ジャッカルの日」)。
 
 「ミス・マープル」(ジェラルディン・マクイーワン主演)からスティーヴン・トンプキンソン(主任警部アラン・バンクスのアラン役。シーズン1「牧師館の殺人」 2004年)、マシュー・グッド(シーズン1「予告殺人」 2005年)、キャリー・マリガン(シーズン2「シタフォードの秘密」 2006年)、ルース・ウィルソン(シーズン3「復讐の女神」 2009年)、ダン・スティーヴンス(復讐の女神」)。
ゲストにジョン・ハナー(「パディントン発4時50分」)、デレク・ジャコビ(「牧師館の殺人」)、ジェラルディン・チャップリン(「スリーピング・マーダー」)、グレタ・スカッキ(「親指のうずき」)、ジェーン・シーモア(「無実はさいなむ」)、リチャード・E・グラント(「復讐の女神」)と多彩。
 
 マープル役がジュリア・マッケンジーに代わって(シーズン4以降)からのゲストにベネディクト・カンバーバッチ(「殺人は容易だ」)、ペネロープ・ウィルトン(「魔術の殺人」)、ブライアン・コックス(「魔術の殺人」)、ナタリー・ドーマー(「なぜエヴァンスに頼まなかったのか」)、ヒュー・ボネヴィル(「鏡は横にひび割れて」)など。
 
 10年後、20年後、あざやかによみがえる名場面。名役者は「なりきる」のとは異なり、さまざまな経験を積み、深まりゆく謎や疑惑と向き合い、疑念が募ってもあきらめず、いや、あきらめても再び向き合い、謎の解明に挑む。難事件に挑む捜査官のように。
人生はミステリーに似ている。ミステリーとは解明困難な疑惑に向き合うことであり、疑惑が深ければ深いほど悩みは消えず、疑惑と確信がせめぎあい、いつの日にか確信が勝利する。それなくして誰が感動をもたらしえよう。
 
 原作は万能ではない。作者は発想力と構築力に長じた人間にすぎず、頭に描き文章によって表現する探偵も捜査官も本物に較べると現実感に乏しい。モースやアラン・バンクス、女刑事リリーは年収の少ない庶民である。衣装係が選んだとしても、若いモースやリリーの着ている服は、仕立てのよくない既製服だ。
住まいにしても、いかにもというような安アパートである。生活感が出る。にもかかわらずモースやリリーの身だしなみはきちんとしており、モースはわざと服が板についていない風体だが、リリーはうまく着こなす。総じて現実感の表現が巧み。それは彼らが俳優だからではない、人生を捜査官という職業に賭け、救われない人間を救おうとする熱意に満ちているからだ。
 
 歌舞伎役者の大名跡には家代々に引き継がれた小道具、煙管、煙草盆、印籠、頭巾、風呂敷などを舞台で使う人もいる。凝っていたのは十代目坂東三津五郎。当人が語っていたのは、祖父八代目坂東三津五郎(博識で知られていた)の影響を受け、芝居に江戸時代の空気をもたらそうとしたのだ、誰のためでもない自分自身のために。
歌舞伎は大道具、背景の絵もすばらしい。英国発ミステリードラマのロケーションがそうであるように。小道具にこだわっていたのは、三津五郎のほかに当代片岡仁左衛門。
 
 うまい役者は原作者が予想だにしない創意工夫にあふれている。作者が創りあげた人物像よりドラマの主人公、共演者のほうに見応えがある。秀逸な役者、卓越したドラマとはそういうものだ。原作を凌ぐドラマが胸にせまる所以である。英国には、なければ人生の妙味が半減するかもしれないと思えるほど熱中できるミステリードラマがある。
                                                                (未完)

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