Aug. 13,2018 Mon    そして英国(5)
 
 
 1999年6月英国再訪の前、イングリッシュガーデンにそれほど関心があったわけのものではなく、ときたまテレビ放送でみるとはなしにみるという程度だった。
訪問先のひとつに北ウェールズを選び、ボドナントガーデン(約10万1千坪)をみて規模の大きさに驚いた。
 
 京都古寺の庭園に行っても畳や縁側に坐るか、狭い廊下をわたるか、小さな庭をめぐるかで、園内を1時間以上かけて散策することなど考えもしなかった。庭園総面積約1万8千坪の桂離宮でさえガイド付きでなければ30分弱で見学は終わるだろう。
 
 イングリッシュガーデンのなかでもシシングハースト・カースル、ナイマンズ、グレートディクスターはさすがにすばらしく訪問に値する。作庭者に魅力があるからだ。日本でほとんど無名の庭園にもみるべきものは多い。
 
 
 有名に弱い人たちは興味ないだろう。有名無名はさておき、イングリッシュガーデンは枯山水のごとく思想が作庭に表現されるのではない、作庭者本人の人生が表現されるのだ。
 
 荒廃に身を任せていたシシングハースト・カースル(ケント州)を買い取った女性詩人ヴィタ・サックヴィル・ウェスト(1892−1962)は英国女性作家ヴァージニア・ウルフとの深い交流でも知られている。
ヴィタは庭をつくるにあたって「単色の庭をつくったらおもしろいだろう。来夏の夕暮れには蒼白い花壇の上を幽霊のような大きいナヤフクロウ(メンフクロウのこと)が音もなく滑空してくれるよう願わずにはいられない」と述べている。シシングハーストの名を高らしめたホワイトガーデンはそうしてつくられた。
 
 シシングハースト・カースルは総面積7300坪だ。ホワイトガーデンにもほかの庭にも思わず立ちつくしてしまう何かがあって魅了される。シシングハースト・カースルにはヴィタの肖像画のほかに夫ハロルドとともに撮影された写真が飾ってあり、セーターとカーディガンの重ね着にキュロットふうスカート、カーディガンのポケットに手を入れているヴィタを「腰から上はチャタレイ夫人、下は森の狩人」と評した者がいる。言い得て妙だ。
 
 グレート・ディクスター(イースト・サセックス州)を1910年に買い取ったのはナサニエル・ロイドだが、妻デイジーは当時10代前半だった六男クリストファーの造園教育の一貫としてガートルード・ジーキル(女性造園家 1843−1932)を招く。ジーキルは英国式庭園のなかに自生植物を主役とする作庭を提唱していた。
その発想はその後の造園に大きな影響をおよぼす。作庭に絵画の色彩法をとりいれたのもジーキルである。季節が移れば空気の色も花の色も変わる。あたりまえのことでも、それまでの造園家は過去の英国式作庭法を踏襲していたのだ。ジーキルの作庭法はイングリッシュガーデンの原型といわれている。
 
 クリストファー・ロイド(1921−2006)は母デイジーおよびガートルード・ジーキルの手ほどきをうけ、ジーキルの発想を応用しつつ自らの創意工夫をグレート・ディクスターの作庭に加味してゆく。後年、クリストファーは同世代のベスチャトーと造園をめぐって何度か激論を交わしている。
ベスチャトーはエセックス州コルチェスターの造園には適さない土地=年間雨量はわずか500ミリ前後、冬は氷点下、夏は摂氏30℃以上、砂漠なみの上に湿地、しかも砂利だらけ=で庭園つくりを始める。どんな土地にもそこに合う植物がある。しかしベスチャトーの信念と不断の努力が実を結ぶのは39年後である。
 
 「奇跡の庭」と称賛され、毎年多くの庭園愛好家が訪れるベスチャトーガーデンの主人ほど慕われた女性造園家は少ないだろう。泥もトゲも虫も手袋をはめず平気で、ときには愛おしむようにさわる。テレビにその模様が放送され、ベスチャトーの愛情に満ちたやさしい顔を見るにつけ、ある種の感慨が押し寄せる。ベスチャトーは2018年5月13日、コルチェスターで94歳の天寿を全うした。
 
 20世紀、メディアの普及とあいまって女性の活躍が頻繁に報道されることとなった。南イングランド・デヴォン州の小さな町トーキー生れの無名作家がその後ミステリー小説の金字塔ともいえる作品を数多く出版するとだれが予想したろう。
 
 第一次世界大戦が勃発しドイツが中立国ベルギーに侵攻したとき、140万人以上のベルギー難民がフランスとオランダへ逃れた。が、難民の一部は英国海峡をわたって英国に流入、その数25万人ともいわれる。当時、デヴォン州トーキーに住んでいた20代のアガサ・クリスティーも町なかで多くのベルギー難民を見ている。
 
 クリスティーの名作ポワロシリーズの主人公エルキュール・ポワロはクリスティーが目撃し観察したベルギー難民と密接に関係している。当初トーキーの住民に同情をもって迎えられたベルギー難民だが、十分な感謝をしなかったという理由で住民は不満をもつようになる。それはほかの町の住民も同じことだった。
 
 クリスティーは「彼らはそっとしておいてほしかったのだ。引きこもっていたかったのだ」と述べている。
幼少時、両親に連れられ南西フランス、ピレネー地方などを1年近く旅したクリスティーにとって放浪のたよりなさ、疲労感はひとごとではない切実な問題であった。
喪失感と不安をかかえた難民の救済はミステリー被害者の魂の救済に相似し、行き場を失った難民への同情は殺人事件によって取り残された者への同情に似ている。いや、事件そのものを解決する人物が必要なのだ。名探偵ポワロ(ベルギー人)の誕生である。
 
 庭園とミステリー両方を好む英国人の趣向が造園に反映されるとどうなるか。それが上半身の埋まった写真だ。ウェスト・サセックス州ヘイワード・ヒースの北北西2.4キロの「ボードヒル・ガーデン」(約25万坪)にある。が、ことしはあっても来年はないかもしれない。たぶんないだろう。新鮮味を失うと知っているからだ。
英国人はロウ人形をつくる。できるかぎり写実を追求する。イングランドのアランデル城(Arundel Caste=下のバナー)、スコットランドのアイリーン・ドナン城(Eilean Donan=下のバナー)でみたロウ人形が特によかったように思う。
 
 旅は発見である。旅はそして追憶だ。英国の小さな町や村を旅して地上の楽園が身近にあったことを知ったのは60歳をすぎたころである。
イングリッシュガーデンをみて造園家と自分の人生を想い、ミステリードラマをみて英国に思いをはせる。次の旅が実現できなくなっても嘆くことはない。生きてさえいれば旅をかえりみて追想にふけることは可能なのだ。別れた女を惜しみ懐かしむのは、別れたことの後悔によるのではないだろう、遠い日の甘い追憶にふけることができるからである。
 
                    (未完)

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