Aug. 05,2018 Sun    旅、そして旅(5)
 
 知への旅ときいたふうなことを言った学者がいたけれど、知るための旅は30代で終わった。旅に出るのは心を奪われる経験をしたいからだ。旅はブームになる前に行くか、ブームが収束してから行くかである。まちがってもブームの最中に行ってはいけない。理由はおわかりだろう。
 
 南仏プロヴァンスを旅したい思いたったのは1990年初めである。その年の8月末、綿密な計画を練ってさあ出発だという矢先、急病のため中止を余儀なくされた。その後1992か1993年のある夜、いまはもうない大阪北浜の三越8階にあった三越劇場でみたフランス映画「マルセルのお城」がきっかけとなりプロヴァンス熱が再発した。
 
 マルセル一家の日常に胸躍ったり劇的な出来事があるわけではない。20世紀初頭、南仏の小さな村の自然や家族の情愛、友の思いやりがほんの少しちりばめられているだけだ。だが美しさの何たるやを最初に気づかせてくれるのは自然であり、「マルセルのお城」の出演者は自然につつまれた一日が人生をどれほど深めるかを見事に表現している。
 
 フランス映画界きっての美少年ジュリアン・シアマーカ(マルセル役)に自己を投影する人はほとんどいないだろう。マルセルはしかし今どきの美少年ではなく、100年前も現在も変わらないであろう庶民性と豊かな感性をもつ少年だ。マルセルに自らを見出すことがあるとすれば、生涯で最も美しく、かがやいているのは少年時代の日々だということである。
 
 未来が閉ざされている人間にも過去は生きつづける。過去のかすかな栄光が希望のあかりをともしていく。そのあかりは夜の暗さに行き惑う旅人の足もとを照らす月影のようだ。ほの暗いのにあたたかさを感じるものがノスタルジー。
 
 1993年ごろ、英国人作家ピーター・メイルがプロヴァンス地方での暮らしを著したエッセイ「プロヴァンスの12ヶ月」が日本でもヒットした。数年前すでに英国内で評判を呼び、英国のほかに米国からの観光客が押し寄せていたプロヴァンス地方リュベロンのゴルド、ボニュー、メネルブなどの村は賑わい、設備のととのったホテルの宿泊料は一気に高騰、小さなB&Bの手配も困難となり、リュベロン行きは遠のいていった。2018年までの25年間、長い眠りについた。
 
 ヨーロッパ出身の女性作家の想像力をかきたてるのは主にフランスや英国の田舎かもしれない。アガサ・クリスティは子どものころ両親に連れられてフランス南西部やミディ・ピレネーを旅している。旅はパリ、ブルターニュなどを含んで1年近くとなり、一家が英国にもどった4年後、もともと体力のなかったアガサの父は病没し、家計は火の車となる。彼女の作家願望は経済的不安からの脱却に起因している。
 
 ヨーロッパ生れではなく豪州ブリスベン出身のゲール・E・メーヨーはフランス・ジュラ県アルレー村(フランス東部)の古城で4人目の夫アントニオ・ビュンヴェニーダ侯爵と生活をともにした。その暮らしぶりはメーヨー著、持田鋼一郎訳「夢の終わり」に詳しい。
「夢の終わり」とはなんとやるせない響きだろう。メーヨーが終生愛してやまなかったのはアルレー村の景観である。そこは魂の安息地なのだ。広い渓谷にかくれ、夢のようなかたちの木が生い茂る丘に囲まれた場所。さえぎるもののない視界が広がったかと思うと小径が延々とつづき、積み上げられた丸太から見える樹木に青霞たなびく村。
 
 6月半ばから下旬、リュベロンのいたるところでかぐわしい匂いを放つ青紫色のラベンダー畑をみた。1971年6月下旬、「いまごろラベンダーが満開」と言っていたMさんを思い出す。
女子高時代のMさんの友人はそのころポワティエ大学に留学していた。ポワティエはフランス中西部ヴィエンヌ県にあり南仏から離れているが、当時フランス映画に出てくるのはハーブ、ミモザ、ラベンダーと決まっていた。
 
 ちょうどそのころMさんと原宿駅で待ちあわせ、明治神宮の花菖蒲をみにいった。午前10時ごろだったと思う。苑内の花は満開なのに人影はなかった。花菖蒲の群生のなかMさんのふくよかで甘い香りがただよい、吸い寄せられるように歩いた。
 
 後年Mさんから届き、送りかえした手紙の文言、インクの色をいまも鮮明に記憶している。最後の手紙だったからなのか、いつものきれいな字が少し乱れていた。ブルーブラックのインクで書かれた文字はMさんの血、手紙はMさんなのだ。
 
 あなたとの六年間。それは何だったのかといまさらのように思います。あたしはあなたにしか理解できない世界にいて、あなたはあたしのわがままに根気よくつきあってくれました。そしてふたりは世界を共有し、人にはわからないかもしれない共通のことばで心をかよわせ、お互いを確かめあってきました。
百パーセント心が通じ合うという至高の体験ができたのは、あなたが神がかっていたせいなのだ、といまはっきりと断言できます。人生は美しく、自由であるべきはずだといつかあなたは言いましたね。あたしはあなたのことを空気みたいだと思っていました。ふだんはあなたのことを忘れることもありました。あなたのことを意識しなくても、あたしは自由。でも、空気なしでは生きられなかった。
 
 あなたほどあたしのことばが通じた人はこの先あらわれないかもしれません。漠然とした不安のなかであたしたちは幸せだったと思います。あたしは一生あなたのことを忘れないと思う。あなたが特異な才能で新しいものを創り出すのを、あたしはかげながら期待しています。十年か二十年後、あなたの講演をききに行くのを楽しみに。どうかお元気で。
                           
 
 Mさんは私を相手に何を語ったのだろう。ともに体験し、自らを確かめ、語っているさなかにMさんはあらたな発見をしていた。そうなのだ、私に語りかけることによって珠玉のことばを見出していたのである。その後の私が伴侶にしてきたように。私が書きあらわしてきたことの大半は伴侶とともに体験したこと、語ったことの抜粋だ。語ることで未知の領域に入っていけたのだ。
 
 実家に隣接する土地は敷地内にあったが手つかずのままだった。私が3歳になったとき、祖父は戦中の疎開先宮崎県でおぼえた農業を生かしてそこに畑とニワトリ小屋をつくった。
祖父が端正こめて野菜や花を育てた80坪の畑が地上の楽園であると気づいたのは60歳をすぎたころだ。60年の寿命しかなかったなら、50歳をすぎたころ気づいたのかもしれない。
 
 祖父はひとことも言わなかったけれど、畑でとれるおいしいトマトやビワ、イチジクなどを孫に食べさせ、ヤグルマギク、カンナなどに群れるチョウやトンボが孫の目にとまるように植物を育てていたのだ。孫のよろこぶ顔を見たかったのだ。私がMさんや伴侶のよろこぶ顔を見たかったように。極楽は日が短い。夢は終わり、夢からさめた少年は老人である。          
                         

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