Jan. 31,2018 Wed    運慶の時代(一)
 
 あれは1968年だったか、早稲田大学古美術研究会「夏の全体合宿」3日目、奈良博(奈良国立博物館)近くの日吉館を発ち、ひとり柳生街道を歩いて円成寺まで行ったのは。当時、古美研は8月下旬の数日間、彫刻、建築、庭園、石彫、絵画の各班が一同に集結する合宿を奈良でおこなっており、定宿は日吉館だった。
全体合宿の前日までの数日は各班ごとに分かれて合宿(分科会合宿)をおこなってもいたが、一同に会するのは奈良、8月下旬ときまっており、私は自由行動日に単独行動したのだ。
 
 いまなお鮮明に残っているのは、庭園班所属の新入生だった18〜19歳の都内名門女子高出身&資産家令嬢らが合宿途中で帰るわけにもいかず、いまにも崩れ落ちそうな日吉館で忍耐強く過ごした日々と、そういう思いの美形には目もくれず、砂ぼこり舞いあがる柳生街道をひたすら歩いた記憶である。
 
 日吉館は著名な学者や作家などが宿泊した歴史ある旅館だが、築年数が経っているうえに内装は未改修、水洗式トイレもなく、いわば時代遅れの古い宿だ。そのぶん宿泊費は格安、手元不如意の学生にはうってつけである。
合宿に魅力的な人間はすくなかったが、愉快な人たちはすくなからずいた。なによりも魅力的だったのは人間ではなく、格子から射す光に照らされたリアルな円成寺の大日如来だ。まばゆいばかりの大日如来は小学校の遠足でみた東大寺南大門の仁王像と同じ仏師の作とは思えなかった。
 
 仏像研究の門外漢である私には様式とか図像学などはどうでもよく、手を合わせ祈りたいほど神々しいか、畏敬の念に打たれるか、身近な人間を想起するほどリアルであるかが重要だった。小〜中学生のころにみた仏像では法隆寺の夢違観音、広隆寺の弥勒菩薩、興福寺の阿修羅が傑出しているように思えた。
小学生のころ母に連れられ関西、中国地方の山間部の寺をめぐった。その多くは僧坊に泊まるか母の知人宅に滞在するかで、お寺の本尊を拝観させてもらいもしたけれど、母の目的は私を山と森の自然に溶け込ませることだった。溶け込めたかどうかわからないとして、自分のからだのなかに自然と同調する何かがあると気づいた。私の下に妹も弟もいたのに、連れて行かれるのは常に私。
 
 昭和初期、母も母に連れられ、小学校の夏休みや冬休みを数年にわたり全国行脚した。母は十人兄姉の末っ子である。深雪の大山寺(鳥取県)、裸足で石段を登り、お堂の前で般若心経二十巻を唱え、那智の滝では白衣を身につけ観音経十巻を唱え、美保神社(出雲)では御祓(みそぎ)大祓、天地一切清淨祓、大國神甲子祝詞(だいこくじんきのえねのしゅくじ)を上げた。私が般若心経や御祓大祓などをソラで音唱できるのはそういう経緯があってのことだ。
 
 円成寺の大日如来をみて瞬時に感じたのは、修行する母のすがたである。仏像に接しても感じたことのない感覚だった。円成寺の大日如来がとびきり立体的で重層的、しかも気迫に満ちていたからそのように感じたのかもしれない。
大日如来は運慶20歳ごろの作だという。運慶の没年はわかっているが、生年は不明ゆえ推定。20歳にして運慶は大仏師であった。
 
 2017年11月、「運慶のまなざし」(金子啓明著)が刊行された。従来の運慶本とはちがって、特に運慶の精神的指針に光をあてる名著である。「インドで初めて仏像が制作されたとき、崇高な釈迦の姿を表現できるのは技芸の神である毘首羯磨天だけであり、人間にできる技ではないとされた」。
「毘首羯磨天は技芸の神であるが、実際に造形できるのは神ではなく人間である」。「運慶が求めたのは造形の表現としての力であり、表現を通しての宗教精神の具現である」。「運慶には仏像こそが人びとを救済する力をもつという強い信念があった。亡魂の救済、浄土往生だけでなく、現世利益としての繁栄、真摯な求道と悟りに至るまで広範囲に及ぶ人びとの祈りや願いを可能にするのが彫像であるという確信をもっていたと考えられる」。
 
 運慶が活躍した時代(平安末〜鎌倉初期)に造られた仏像は、彫像にいのちと魂が宿る生身(しょうじん)とみなされていた。そのことに関しては後日アップ予定の「Book Review=運慶のまなざし」に譲りたい。
「運慶展」で印象に残っているのは、1994年5月28日〜7月3日「奈良国立博物館」で催された「運慶・快慶とその弟子たち」だ。
                      (未完)

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