Dec. 27,2017 Wed    人生はシネマティック&否定と肯定
 
 先月末(2017年11月30日)、英国映画「人生はシネマティック」をみた。第二次大戦前半、英国情報省が国民を勇気づけるために映画製作を試み、脚本を担当する人材を公募、選ばれたのは無名の女性脚本家である。そこに情報省映画局顧問、映画俳優とそのスタッフ、情報省幹部などが入り混じってドラマが展開する。
 
 英国映画でおなじみのビル・ナイ、エディ・マーサン、リチャード・E・グラント、ジェレミー・アイアンズ、ヘレン・マックロリーほかいずれも劣らぬ名優陣だ。ドラマの中盤を過ぎて思いもかけず好演するのがヘレン・マックロリー。
彼女の面立ちはオーストリアの名女優マルト・ケラーに似ている。若いころのマルト・ケラーはもっと美人でセクシーであったけれど、そういう部分をヘレン・マックロリーは持ち前のなじみやすさと軽妙さで補っている。
 
 近年、米国製作映画に英国の俳優が出ていることがある。それはそうだろう、ここぞと決めるシーン、あるいは何気ない表情、目の動きでうまいと思わせるのは英国人なのだ。
それにしても、恥ずかしげもなく英国俳優と共演する気になったものだ、おのれのヘタさかげんがあらわになって銀幕に浮いてしまうだろうに。トム・ハンクス、メリル・ストリープなどのオスカー俳優は演技過剰。かれらはアテ込む芝居をする。簡単にいうとむだな動きをする。
 
 うまいへたの見分けがつかない観客なら問題はないが、館内にはそうでない観客もいて米国俳優のダイコンぶりが目についてしかたない。近年うまくなった俳優もいるにはいる。「スポットライト」に出ていたレイチェル・マクアダムス、マーク・ラファロや「黄金のアデーレ」のライアン・レイノルズなどの成長株である。
 
 その点「人生はシネマティック」は英国俳優でかためているので安心してみていられる。2017年に公開された外国映画、といっても米国映画は特別な場合を除いてWOWOWに降りてきたときしかみないので、英国映画をふくむ外国映画のなかでベストワンの作品。駆け出しの脚本家をやっているのは、やっとまともな主役に巡り会えたジェマ・アータートン。相手役にサム・クラフリン。
互いに意地っぱりで不器用。そのふたりと共演者が映画づくりに情熱をそそぐようすとロンドン空襲が並行して進み、仲間の突然死、スタッフの交代、情報省幹部との丁々発止のやりとり、そこに家庭の事情も入り、ハラハラドキドキの筋立てがドラマに彩りと陰影をあたえる。
 
 ジェマ・アータートンは生まれつき親指多指症で両手の親指の横に指状の突起物があった。余分な指を手術し切断したという。イングランド・ケント州の貧しい家庭に育ち、学資援助を受け王立演劇学校に通った。ジェマを初めてみたのは「聖トリニアンズ女学院」。コリン・ファースも出ている英国映画で、ジェマは端役だが彫りの深い個性がよかった。
 
 WOWOWで「プリンス・オブ・ペルシャ 時間の砂」のペルシャにひかれてみたら、彼女がヒロインをやっていて驚いた。ヒロインのキャラクターではないからだ。これは評にかからない。
ジェマは「ボヴァリー夫人とパン屋」(2014)でフランスの名優ファブリス・ルキーニと共演。英国から移住してきたボヴァリー夫婦にパン屋のファブリス・ルキーニが絡む。ジェマはルキーニとうまくつきあって滑稽な作品に仕上がっていた。
 
 現実世界で逆境に生きたから映画界で逆境を生かす演技ができるとはかぎらず、経験が仇となることもないわけではない。英国映画も俳優業も甘くはない。しかし経験は個人特有のものであり、経験は感性を育てる。特有のものは普遍的とはいえないかもしれない、が、感動をよぶのは普遍性というよりむしろ個人特有の経験なのだ。
若い女性脚本家はベテラン俳優に言う、「経験と感性を貸してください」。と言われて心を動かさない中高年はバカというほかない。ここまで書けば読者諸氏はおわかりだろう、彼女は見事にやってのけたのである。そして共演者が、とりわけサム・クラフリンとビル・ナイがジェマをひきたてている。
 
 「人生はシネマティック」出演者の誰のせりふだったか、「意味のない人生に意味をもたせるのが映画だ」というくだりがある。映画の魅力のひとつは現実でかなえられないことをかなえてしまうことだ。
映画は実人生に較べて価値は低いかもしれない。しかし「人生はシネマティック」には映画の持つさまざまな魅力があふれ、見終わらないうちに胸がいっぱいになる。
 
 
 12月25日、「否定と肯定」(2016 英米合作 原題 Denial)をみた。25日前にみた「人生はシネマティック」と対照的な作品で、主演の英国女優レイチェル・ワイズ(歴史学者 被告)より助演のトム・ウィルキンソン(弁護士)とティモシー・スポール(歴史学者 原告)のうまさが目につく法廷ドラマだ。
アンドリュー・スコット(弁護士)、アレックス・ジェニングス(判事)、マーク・ゲイティス(歴史学者)もよかった。原告は被告に名誉を傷つけられたとして提訴する。
 
 マーク・ゲイティスは英国ドラマ「シャーロック」で主役ベネディクト・カンバーバッジの兄(高級官僚役)をやっているバリバリの英国人だ。それがポーランド人をなんの不自然さもなくやる。使う英語はポーランド訛り、顔にいたっては疑いもなくポーランド人そのもの。先輩でそうしたペテン師を無理なく演じたのはアレック・ギネス。
アレック・ギネスはアラビアのロレンス」のファイサル王子、「ドクトル・ジバゴ」のエフグラフ、「インドへの道」の哲学者アジズなどアラブ人、ロシア人、インド人に魔法使いのごとく化けた。ヒトラーをやったこともある。
 
 「ターナー 光に愛を求めて」のターナー役で一躍名を知られるようになったティモシー・スポールは映画通なら知らぬ者はいないほどの名優である。18世紀末〜19世紀半ばに名をはせたターナーを、描いた風景画のような格調高い画家として演じなかったのは演出というより役者の工夫だろう。
今回はアウシュビッツ収容所のガス室殺戮を認めない歴史学者役。ナチスドイツやヒトラーの信奉者とはおもむきの異なる持論を展開し、おおいに顰蹙を買うのであるが、いまもドイツやオーストリアに存在するネオナチ、英国内にもいる同種の輩に支持される。
 
 トム・ウィルキンソンの出演シーンで秀逸なのは雪景色のアウシュビッツ収容所跡。実在の法廷弁護人が調査のためアウシュビッツへ出向いたかどうか、行ったとしても映画のように行動したか、そういうハラ(精神的指針)を持っていたかはわからないけれど、せりふなしで見事に重厚なハラをみせてくれた。トム・ウィルキンソンの真骨頂である。そのシーンに較べれば法廷シーンは平凡だ。
 
 「マイ ビューティフル ガーデン」(2016 英)でも最近めきめき腕を上げてきたジェシカ・ブラウン・フィンドレイ相手に厚みと洒脱を兼ねそなえた役をやっていたトム・ウィルキンソン。ジェシカは「ダウントン・アビー」で伯爵の三女シビルを好演し、その途上キャリアアップを志望。そんな彼女にハリウッドが目をつけ「ニューヨーク冬物語」などに出たがパッとしなかった。
「マイ ビューティフル ガーデン」で水を得た魚のごとくチャーミングでラブリー、しかも芯の強い女を演じきったのはあっぱれ。
 
 「否定と肯定」にかぎったことではないが、演技に必要なのは節度である。過剰は不足と同じ、みる者の心に訴えてこない。演技の深みにはまり、節度を保てなくなったときにそなえ、用心深い演者はあらかじめ境界を設けている。
問題なのは境界をどのあたりに定めるか。うまい役者は、越えるか越えないか、すれすれのところに設けて節度を守る。自然な演技はそうして生まれるのだ。
 
 「否定と肯定」は「人生はシネマティック」と対照的であると記した。片方が人生に意味があるかどうか問いかけているのに対して、他方アウシュビッツのシーンは、生きること自体に意味があると語りかけている。収容され殺戮されたユダヤ人、死を免れ現世にもどされたユダヤ人、そして遺族にとって。
 
 これまで強制収容所をあつかった映画は多く、ことばにあらわせない重苦しさを感じた。「否定と肯定」の眼目は内と外の法廷闘争であり、法廷弁護人と弁護側の証人席に立った歴史学者は、「ガス室の使用目的は収容者の消毒だと主張し、残虐行為を否定する」ティモシー・スポールの著書と講演の錯誤、欺瞞を暴き、公訴棄却、原告敗訴へと導く。
 
 それで気持ちがすっきりするかというと、そうでもないのがティモシー・スポールの好演である。それを好演とよんでいいかどうかはともかく、レイチェル・ワイズの法廷における言動表情に品がなく、海千山千歴史学者ティモシー・スポールに節度を感じた。節度はインテリを味方にする。小生はインテリは嫌いだが節度は嫌いではない。
 
 主役が落ち着きを取りもどすのは弁護人の助言による。それでもなお主役が品格に欠けるのは、演出とか演技過剰のせいではなく、工夫がたりなかったのでもなく、学者の21世紀的ありようなのだろう。レイチェル・ワイズはそういうハラで作品にのぞんだのかもしれない。
 
 映画のタイトル「Denial」の原作がストーリーだけのものではなく、構成全体に関わるもの、判事役アレックス・ジェニングスが補足意見として言及するせりふに関わるものなら、否定はある意味二重否定の様相を呈してくる。
判事は、歴史的事実に反するとしても、学者は自己の学説を頑なに信じるという部分に光をあてる。翻れば当然のことでも、法廷の熱気に巻き込まれている人々に判事の言がどう映るのか。否定ということばの重みが伝わってくる場面だ。
 
 それにしても、くどいようだがティモシー・スポールの芝居は見事。へらずぐちを何度も叩き、いつのまにかへらずぐちに聴きいってしまう。裁判に負けてもへらずぐちは続く。勝訴しても勝った気がしない。
 
 11月末、年末とつづけてみた映画は両方みたことによって書き記すことが増え、多くを端折ってもこの長さになってしまった。年末の繁華街はかなりの混雑、できれば避けたい。みる値打ちのある映画は劇場でみるものだと映画の精がささやかなければ映画館に出向いたかどうか。
満たされた気分になって映画館をあとにするとき、この感慨を自分自身のために書き記しておこうと思った。そうして今年も暮れようとしている。

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