Mar. 07,2006 Tue    庭園班OG(1)
 
 HHと世田谷区岡本町にたどりついてみたものの、そこは田園調布や柿の木坂、南平台とはひと味もふた味もちがう、嵯峨野の祇王寺あたりの林にまぎれこんだような落葉樹が鬱蒼と生い茂り、つつじや山茶花の刈り込みが地道にせり出さんばかりのお屋敷街なのであった。
ひとつの屋敷から次の屋敷までの距離が小さな野球場ほどもあって、手当たり次第に探し歩くにはそうとう骨がおれることは、雨にあたれば濡れるくらいはっきりしていた。
 
 「二子玉川までもどるか」、HHがいった。冗談じゃないと思ったが、こんなところで時間をむだにするのも癪だった。HHは、「道中に赤電話の一つないこともなかろう、そこでKさんに電話して道順を訊こう」といった。がしかし、二子玉川駅からここまで来る道すがら、電話の赤い影は見当らなかったように思えた。
 
 駅まで公衆電話はなかった。そんなところまで昭和43年(1968)ごろの嵯峨野と同じだった。結局、二子玉川でHHが電話をかけた。ずいぶんと長い電話だと感じたが、じっさいは10分くらいであったかもしれない。電話を切り、歩きながらHHは、「Kさん、電話に出るまで時間がかかってな」とけだるそうにいった。
 
 さっき通った道とはまるでちがう、鷹峯・光悦垣のような垣根が延々とつづく細い道を歩き、途中で垣根に別れをつげて左に曲がり、迷路を探索するかのごとく右に左に折れ歩き、4〜5メートルはあろうかというキンモクセイの下でHHは足を止めた。黄橙色の花の先端は深く裂け、芳醇な甘い香りがただよい、ふたりは申し合わせたようにふぅ〜と息をついた。
 
 「ここだよ」。ここだよといわれても、キンモクセイの後は山茶花の垣根だけしかない、薄暗い路地裏ではないか。「なんていったんだ、Kさんは」。「曲がり道のことか」。「いや、そうじゃなく」。「大きなキンモクセイがあって、匂いにむせかえったら、そこが裏木戸だってさ」。「そうかい、文学部らしい言い草じゃないか」。
 
 十八、九にしては、東京の良家の子女はませてるなあ、HHも私もキンモクセイを知らず、鼻もわるけりゃどうするのさ。
「もうすこし歩くか」。「ああ」。波のようにうねる山茶花の蔭にかくれてわからなかったが、二間ほど行くと時代がかった小さな木戸があった。「これのことだろう」。「ああ」。
 
 大人がかがめばかろうじてくぐり抜けられそうな木戸の右側の柱には、押しても鳴るかどうか疑わしい、いまにもはずれて落ちそうなブザーが取りつけてあった。押してはみたが鳴っている手応えはなかった。
木戸の前でしばらく立っていたら、木立のなかで人の気配がした。耳をそばだてると、複数の女がなにやら話しながら近づいてきたのであるが、女のひとりが、「お嬢さま、わたくしがまいります」といい、「いいの、わたしのお客さまだし、わたしが行きます」とKさんの声がした。
 
 「お待たせ」。内側に開いた木戸にKさんの姿があり、いきおいよくそういった。「やあ、」。HHと私のことばが同時に飛び出したせいか、Kさんはうふふと小さく笑った。「K子からIさんとHさんが来るかもしれないヨって聞いてたから、そろそろかなって。どうぞお入りくださいな」。
 
 木戸をくぐった裏庭は、九月半ばに訪ねたSKさんの家の開放的で明るい芝生の庭とちがい、築山風の小高い丘がいくつもあって、手入れのよい刈り込みと樹々が緑陰をそこかしこにつくり、茶室のような庵が点在する広大な庭園であった。
 
 陰影にとんだ庭に見とれていると、黒い影が目の前を素早く通りぬけた。それは宙を飛び、ひときわ高い木立の上を飛び去っていった。チョウにちがいなかった。九月下旬、、樹や花が多いからチョウがいるのかと思っていたら、ヤツはどこからともなく舞いもどり、サッと身をひるがえし、ふたたびどこかへ消えていった。
 
 ルリタテハだった。黒っぽい羽の外側にひとすじ、あざやかな水色の線を描いているチョウで、子供のころでもたまにしか見ていない。いきなり目の前に飛び出し、アッという間に上空へ去って行ったそいつは、モンシロチョウのようにひらひら舞うという感じではなく、音のない超音速機のように迅速に一直線に飛ぶ。
茫然とその姿を目で追っていると、また勢いよくもどってきて、同じ場所にとまる。ほかのチョウがそばに寄ってきても、いたずら坊主が小石を投げても、また同じ場所にもどってくる。チョウによく見られる占有行動なのだが、この庭がルリタテハの栖(すみか)であれば、メスが一羽いるはずだ。かれらは成虫のまま越冬するのである。
 
 「いまの見たかい」、そういったら、HHは「ああ」と生返事した。「たまに見るの、あれ。ルリタテハでしょ」。ヤツのこと知っていたのか、Kさんは。四阿を過ぎるといい具合の庵があって、そこでお茶を所望しようかと都合のいいことを考えていたら通じたのか、「あの離れにしましょうか」とKさんはいった。
 
 すすめられるままにパナマ草の座布団に座ってぼんやり庭を眺めていると、四十代とおぼしき女性がお茶とお菓子をはこんできた。「仰げば尊し和菓子の恩‥」。HHがダジャレをいい、Kさんはしかたなさそうにウフフと嗤った。
 
 「お嬢さま、大旦那さまが母屋のほうにご案内してさしあげたらとおっしゃっておいででございますが」とその女性がいうと、「いいのよ、ちよ、ここのほうが」とKさんが応えた。「さようでございますか」。「おじいさまにお礼をいってくださいな」。「かしこまりました」。ちよさんはうやうやしくお辞儀をし、石段にきちんとそろえた草履をはいてしずしずと下がっていった。母屋なんてどこにあるのか、高低のきつい築山と広葉樹林のせいで、それらしき建物は見えなかった。
 
 そうこうするうちにこんどはKMさんのお母さんがおみえになった。「M子さん、母屋にご案内してさしあげたら」とみやびやかな声でおっしゃったその方は、旗本のご内室とお公家の姫さまとを併せもったような女性だった。「お母さま、離れのほうがよくってよ」、KMさんがそう応えたため、母屋はみれずじまい。
 
 HHがなかなか用件を切り出そうとしないので私が口を開いた。「来月下旬か再来月、古美研で野球をしようかと思っているんだ」。「ええ」。「それでね、区民グランドを借りたいのだけれど、申し込んでもらえますか」。
「世田谷でするの?」。「うん、まあ、世田谷なら交通の便もいいし」。実は、もっとも交通の便のわるいのが世田谷区なのであった。「で、いつがいいの」。「そりゃあ、日曜か祭日がいいけど、なあ」と振りかえると、HHは「ああ」と応じた。「十月の最終日曜か、十一月の第一日曜か、文化の日でもいいよ、なあ」とHHにいったらば、また「ああ」とだけ応える。
 
 「いいわよ、きょうは日曜で区役所はお休みだから、明日申し込んでおきます」。
やれやれ、来た甲斐があった。それでは菓子をいただくとしよう。一口食べたその和菓子のうまかったこと。
茶釜がしゅんしゅんといい音を立て、すっかりくつろいで、庭のどこかから一定の間隔できこえてくる鹿威しの、カターン、コン、カターン、コンという音をきいていた。会話が途切れ、時間がゆっくり流れていく。
 
 すると、木の音にはちがいないが、鹿威しとは異質の何かがぶつかりあうような、カツンという短い音が私たちの座っている庵の真下から、かすかにきこえてきたのである。「なんだい、この音」、HHがいった。「わかんない?」とKさんが応じる。HHと私は思わず顔を見合わせた。Kさんは無言でソウナノヨとうなづいた。「下に地下室があるの」。
 
 その地下室で玉突きをなさっているのはKさんの家族だろうかと怪訝顔のふたりをチラッと見て、「父とご近所の玉友だち」とKさんはいった。タマトモダチという表現が、ふだん使っている言い方であろうが、妙におかしく、吹き出しそうになる我慢顔を見て、「やあね、考えすぎ」とKさんはたしなめた。
 
 「戦争中に祖父が防空壕を掘らせたのよ。せっかく掘ったから、何かの役に立てましょうって。平和利用ということかな」。「‥‥」「‥‥」。「向こうのお茶室の地下は麻雀室」。「‥‥」「‥‥」。「するんでしょう?」。「やらないんだ」と私がいう。
「Iさんが、まさかあ」。「部屋に閉じこもってする遊びって好きじゃないんだ」。
「意外。Hさんは?」。「めったにやんない。しても並べるだけさ。Kさんやるの?」。「小学生のころ、祖父が手ほどきしてくれたけど、おばあさまが嫌って、二年くらいであきらめたみたい」。
 
 きりのよいところでそろそろ暇乞いをとHHに目配せしたら、彼もそのつもりであったようで、お前から切り出してくれないかという目をした。しかたないなぁと目で返事したら、Kさんがすかさず、「なあに、変な信号おくって」という。
「いや、なに、その、ぼちぼち失礼しようかなと」。「もお、まだいいじゃない」。「しかし、時間が」。「気になるの?だって、Iさんは渋谷、Hさんは柿生でしょ、近いじゃない」。
 
 Kさんはただの深窓の令嬢ではなかった。よく調べていた。が、女性に引きとめられると意地でも帰りたくなるのが私たちであってみれば、そのときもご多分にもれず、後ろ髪をひかれる思いでK邸を辞することとなった。
庵から庭におりてすこし行くと、いろは楓が数本あって、HHがKさんに聞こえぬように、「われわれの心境だな」とささやいた。カエデの花ことばは遠慮である。
私も声をひそめて、「なら、Kさんはオオカエデか」といった。「なんだっけ、オオカエデは?」と訊くので、「コウキシンだよ」といっそう声を静めた。「おお帰でソレントへ」とHHがつぶやくのが聞こえたのか、「何かおっしゃって、Hさん」とKさんが訊き、「いや、なんにも」とHHがごまかした。
 
 と、そのとき、カエデのそばの石灯籠の蔭から数人の男が、「きょうはやられましたなぁ」とかなんとかいいながらヌウッとあらわれた。そのなかのひとりが目ざとく私たちを見つけて声をかけた。「M子さん、早稲田のご学友ですか」。「はい、お父さま」。その人は、そこにいるだけで江戸の空気を送り込んでくるような、武家の風情をなびかせていた。
 
 
 記憶は妙だ。再生ボタンを押して映し出される画面のように苦もなくよみがえるものもあれば、ところどころ歯抜けになっているものもあり、思い出そうと一心不乱になっても脳は何の応答もしてくれず、あきらめたら突然思い出すこともある。
記憶の箱には、すべての過去が均等に配列されているわけではなく、変わらぬかたちと色を保っているものもあり、かたちも色も変わろうともがいている過去もある。
 
                          (未完)

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