Nov. 17,2017 Fri    そして英国(4)

 
 こういう人間と出会うために生きてきたと思える人はほとんどいない。しかし、こういう風景と出会うために生かされてきたと思える旅はある。心の奥底にとどまり、あるとき不意にあらわれ血管をかけめぐり、胸が熱くなる。ときに遠い過去に引きずり出し、いまのおまえは何をしているのだと言う。旅の精は愉悦をもたらすだけではない、旅人をおびやかし慄然たる思いをもたらすのだ。魂を震撼させる経験は常にそういうものである。
 
 生きてきたと思う時間は生かされてきた時間に較べると束の間、しかし、生きてきたと思える短い時間のなかで終生忘れることのない人間と出会い、旅を続けることによって生かされていることを知る。旅の果実を収穫した者なら、生かされてきたことに感謝する日は必ずやってくる。
 
 強い光はまぶしく反射するか、黒い影をつくるかして多くのものを映す力はない。弱い光は強い光では見えない木々の葉の向こう側を見透かし、雑草の奥を映す。物事を見通すには、強くあることより弱くあれ。弱さが鉄の鎧を身につけた人から鎧を脱がせるのだ。私たちがいやされるのは、夏の光より晩秋や初冬のあたたかい光である。
 
 風景も人も魅了されるところは類似している。感動が人間を動かすということについて異議をさしはさむつもりはないけれど、感動は長続きしない。長続きするのは五感をまさぐり、感覚のすみずみに浸透し、決して風化しない何かだ。そういう何かは、いつかどこかで記したように魂の通り道から運ばれてくる。
それはあたかも深いなじみを重ねた女性と初めて出会ったとき、そして月日が移り、その女性に濃厚な色艶と幽かな陰影を見て心奪われたとき感じた何かに酷似している。
 
 だが、それだけでは心奥にとどまりはしないだろう。ふだんは眠り、あらわれてはひっこみ、ひっこむとみせかけてあらわれる孤独、その孤独をかきたてる風景もまた魂を震撼せしめる風景である。初めてヨークシャー・ムーアを見たとき、ムーアのなかに入ることも写真を撮ることもできず慄然とながめていた。
荒涼としかいいようのないムーアは心の風景だと感じた。感動をこえた震撼は、孤独であったことを、もしかしたらいまも孤独であることを想起させる風景によってもたらされる。そういう風景は、記憶の深淵に閉ざされた過去から自省の念を呼びさましさえするのだ。
 
 英国再訪を繰りかえしてきた。ダートムーア、エクスムーア、オークニー諸島などいたるところでムーアを歩いた。しかしヨークシャー・ムーアの寂寥、孤独を感じることはなかった。ほかのムーアは寂寞の痕跡をとどめてはいても、寂寥そのものでもなければ孤独でもない。愛する人のすがたがみえなくなった途端さみしくなる孤独こそがほんものなのである。風景が孤独をよぶのではないだろう、孤独が風景に感応し、自分の意思に反して安住の地を見出すのだ。
 
 そういう点においてサウス・ダウンズ、ソールズベリー平原ほかのさまざまなダウンズや広大な平原と山野に孤独を思うことはほとんどない、晩夏や晩秋の夕刻、人影のない荒野に一抹の寂寞を感じることはあっても。
 
 北ウェールズを初めて旅したとき、どこからの帰路だったか忘れたけれど、道に迷って狭隘な直線道を進んだ。数百メートル走ってもUターンできる場所はなく、さらに進むと右横に線路があり、見たこともない幅の狭いレールが敷かれていた。ここはどこと道路地図を見ても、容易に特定できるものではない。直進するしかなかった。
 
 そうこうするうちに道全体を塞ぐ門につきあたってしまった。行き止まりだ。こうなったらバックして戻るしかない。長い運転歴でバックで走ったことはあったが、1キロもの距離をバックしたことはない。何事も経験、やってみようじゃないとハラをくくった。
と、その矢先、門が開いたのである。
だれが、どこで操作しているのか。付近にそれらしき建物も人もなく、門に自動センサーもなかった。ウェールズはアーサー王の魔法使いマーリンの国だ、魔法の粉でもふりかけたのか。門を抜けると交差点があり、目的地への標識もあってホッとした。後になって線路はタラスリン鉄道と知った。世界初の保存鉄道だ。開けゴマはいまも謎である。
 
 荒野の話に戻る。「君といれば荒野も都のにぎわいとなる」と誰が言ったか、「枯木も山のにぎわい」のパロディではないか。都会好きの言いぐさで、ことばの意味は些末なこととして、都の喧噪と荒野の静謐を比較するのもどうかしているし、にぎわえばいいというものではないだろう。
都のにぎわいとなる女性の顔をみたいものだ。さぞにぎやかなご面相なのだろう、または性格や動作がにぎやかなのだろう。
 
 南西フランス・ミディピレネーのロカマドゥールやコルド・シュル・シェルも忘れがたい。特にロカマドゥールの夜、宿を出て徒歩で夕食に向かったときは足下も明るく軽快だったが、2時間の食事と談笑をすませ帰路についたとき、レストランからわずかにもれる灯りは30メートルほどで終わった。修道院のなかを通り、ほのかな橙色の照明に導かれ歩を進めた。
 
 そこからがタイヘン、往きはよいよい帰りはこわいの漆黒の闇が待っていたのである。ペンライトを宿に置いて出てきた。来た道を引っ返すから問題はないと考えていたのが大間違い、細い道はロカマドゥールの谷あいをくねくね曲がりながら走り、街灯はない上に新月、星明かりだけが頼りなのに、ちぎれ雲なのに星も少ない。
季節も方位も味方せず、金星、木星もどこにいったのやら。明るい星は隠れ、かぼそい光を放つ二等星以下の星が天空で遊んでおり、このときばかりは満月の力を借りたいと思った。
 
 これぞ闇夜といわんばかりの暗夜行路は足下さえ確かめられぬ深い闇、うしろを歩く伴侶の顔、その姉の顔も見えず会話だけが宙に舞う。「宙に舞う」は比喩ではない。ことばがダイレクトに伝わるのとはちがって何者かがことばを受けとめ相手に渡す。瞬時におこなわれるのだが、いったん宙に浮かんで、かたちが見えるかのごとく立体的なのである。
夜あらわれる妖精が私たちの交わすことばでキャッチボールしていたのだろうか。ことばのほかに伝達手段がなく、月と星の灯りにたよった太古、漆黒の闇だからこそ、ことばは立体的になったのか。子どものころ、相手の顔がみえない闇で交わした会話は生き生きして宙を舞っていた。闇とはそういうものなのか。
 
 腹が満たされていたせいか、闇にまぎれたのをむしろ歓迎していたせいか、曲がり道がどう曲がっているか見えないことなんか意にも介さず、3人とも落ちついて歩いた。ふと振り向けば、ライトアップされた修道院が、歩きはじめたころ見たよりはるかにあでやかに変身していた。何度立ちどまって振り向いたろう、そのたびにため息をつき、身じろぎもせず。プチ合宿一日目、奈良公園・鷺池に浮かぶ浮見堂への道すがら、夜道に立ちつくす鹿のように。
 
 私たちはふつうに歩けば40分ほどの道のりを2時間半かけて歩いた。宿にもどったのは午前1時前。思いのほか熟睡した朝は深い霧におおわれていた。宿は高台にあり、眼下の民家は見えず、話し声はきこえるのに人影も見えず、霧が運んだのか靴音だけが甲高くきこえてきた。目を閉じてロカマドゥールを回想すると、幻想的な夜の修道院の美しさが浮かび、靴音がきこえてくる。
 
 ウェールズは英国のなかでも別格である。行った人は異口同音に素朴でいいところだと言う。そういう陳腐な言い方でウェールズを語るとはなんと怠け者。素朴でいいところは日本にもたくさんある。ウェールズは心のふるさと、子どものころ見た風景と年老いて思い出にふける風景のほかに何もなく、何もないことが温かさと豊かさ、やすらぎをもたらすのだ。
 
 写真になる風景やステキな経験は期待できない。6月の北ウェールズはこの世のものとは思えないイチゴ。5月と9月は保存鉄道と登山鉄道。私のように鉄道マニアでない者も惹きつける庶民的で気高い蒸気機関車が旅人を待っている。行けば誰にでもわかることだ。
6月初旬はボドナントガーデンの黄金色のキングサリ。年中おいしい北ウェールズの水。まちがっても南ウェールズで水を飲んではならぬ。まずい。水の経路がスノードン山系からか、そうでないかのちがいである。
 
 ミネラルウォーター、天然水は日本でも35年以上前から飲んでいる。煮物、炊飯、お茶などにも水道水は一切使っていない。25〜20年前に愛飲していた「月山の水」はとびきりおいしかった。
羊蹄山の水、立山の水、名水百選もずいぶん飲んだ。熊本県、鳥取県(真名井の水)、富山県ほか。まずまずのおいしさだった。南アルプス天然水は語るに値しない。そういう天然水と較べてどうかといえば、北ウェールズの水道水は月山の水や信越・九州地方の特別な水に匹敵し、ほかの水すべてにまさっている。
 
 ウェールズのスノードニア国立公園はレイク・ディストリクト国立公園(湖水地方)の次に面積が大きく、英国で3番目につくられた国立公園だ。みるべきところは多く、特に北ウェールズに集まっている。13世紀建造の名だたる古城をはじめとする世界遺産云々はともかく、スノードン山付近に点在する湖と、山あいや湖畔を走る蒸気機関車を同時にみることができるのもスノードニアの魅力となっている。それが上の写真。季節は初秋。
 
 旅はつづくかもしれない、あす終わるかもしれない。さまざまな思いを乗せて汽車は走る。汽車を降りたら思いは募る。帰国して、もう次のプランを練っている。感動や震撼を書き綴るのを後回しにして。残された時間で旅の果実すべてを書き終える前に自分自身が強制終了される日も遠くないだろう。
あれほど旅したのにまだ足りないのかとどこかでささやく声がきこえる。過剰なまで色に耽ったのにまだ足りないと思う中高年と同じではないかと別の声が言う。色に果てがあるかどうかはともかく、旅に果てはない。プランが実現するかどうかは未知の領域である。そしていつものように、未来で過去を語っている。
 
                    (未完)

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