Oct. 24,2017 Tue    続・魂の形見

 
 長きにわたって旅を続けることができたのは、得体のしれない不思議な力に導かれたのか、ほかにこれといった欲もなく旅の追求一点に的を定めたのがよかったのか、家庭を持って以降ほとんどの旅を伴侶とともにしたのが正解だったのか、考えてわかるものではないのに自問した。答えはでなかったけれど、ただひとつわかったのは魔法使いである。
 
 子どものころ、「アラジンと魔法のランプ」に登場する大男。
魔法のランプの原典は「アラビアンナイト」であると思ってきたけれど、いつだったか、ほかのことでアラジンを調べたら、「アラジンと魔法のランプ」はアラビア語の原典も写本も存在しないということで、18世紀初めA・ガランが仏訳した「アラビアンナイト」はいったい何だったのかと思ったものであった。
 
 そうはいっても魔法の魅力は失われるどころか、一生に一度、いや、五度くらいは魔法の恩恵に浴したいものだと思いながら生きてきたふしもある。魔法を経験したのは小学生時代、現実世界のなかではなく夢のなかだった。毎週舞台をかえて夢をみる。あるときは空を飛び、またあるときは魔法の絨毯に乗って空を飛ぶ。
魔法の絨毯で見たこともない世界を旅して、うまく地上に到着することもあれば、失敗して膝小僧をすりむくこともあった。最悪だったのは、崖から真っ逆さまに落下し、絨毯が巻かれてそのまま失速、すんでのところで目がさめた。そんな夢をくりかえしみて、疲れたったらありゃしない。
 
 学生時代、これは魔法以外にないと思った出来事がある。
その手紙は前ぶれもなく突然、1970年11月末にやってきた。1970年10月下旬、手紙の書き手Mさんに「海の描写がすばらしく、こんな文章を書いてしまえば、これほど鳥肌が立つような文章は二度と書けないだろう」と私が言ったらば、Mさんは「貸して」と言った。豊饒の海・第一巻「春の雪」である。
 
 手紙には「空気をふだん感じることはないけれど、なくなったら生きていけない」という意味の文言があり、最後に「ミスターエアーさま」と記されていた。驚いた。古美術研究会の新入生歓迎旅行で甲府、塩山へ行ったとき初めてみたMさんはかがやいていた。そしてそのかがやきを2年後もその後も保ちつづけた。そんなとき魔法使いがあらわれ、Mさんに魔法の粉をふりかけ手紙を書かせたのだ。
 
 アフガニスタンのバーミヤン。カーブルの西81キロ(直線距離)に位置するバーミヤンへはシバル峠を越えねばならない。パキスタンからカイバー峠に向かう場合、避けられないのはヒンズークシ山脈であり、シバル峠一帯はヒンズークシに較べると規模も小さい。
峠を越えバーミヤンに近づくにつれ、カーブル川の支流に沿ってポプラ並木が10キロ以上延々とつづく。ポプラの木と木の間隔は狭い。10月半ば午後4時半ごろ、傾きかけた太陽が繁茂するポプラの黄葉の一枚々々にあたって照り返す。その美しさといったらなかった。
 
 カーブルに来る前はパキスタンのペシャワール、ラワルピンディにいた。10月のラワルピンディ、ペシャワールは暑さが残っており、日中は盛夏、夕方は秋である。ペシャワールから日帰り可能なスワート渓谷の近くには保養地スワート村があって、村内のスワート博物館にはガンダーラ仏が展示されている。
ラワルピンディの北西34キロのタキシラにはシルカップ遺跡、タキシラ博物館がある。ガンダーラと呼ばれた地域はタキシラ周辺であると推定されていた。
 
 両博物館には青色&白色片岩などでつくられた仏像や仏頭、ストゥーパなどが展示されていた。見事だった。しかし、ほんとうにもとめていた仏像はペシャワール博物館にあった。スワートからペシャワールのホテルにもどったとき、時刻は午後4時を過ぎていた。ペシャワール博閉館にはまだ時間がある。ホテル玄関前でタクシーに飛び乗った。
 
 ペシャワール博についたのは午後4時半ごろだった。入口に立つ館員は「もう閉館です」と言う。見学時間は30分ほどあった、が、すでに閉館時間だったのだ。まじめな顔の館員に事情を話し、なんとか入れてもらった。
改修をうけて間がなかったのか、館内は清潔で空調も万全だった。1971年当時、日本であれほど空調設備の整った博物館・美術館は少なかったのではないだろうか。おまけに人影ななく私ひとりだった。そしてそこは別世界だった。
 
 白い片岩(大理石仏もあったかもしれない)でつくられたガンダーラ仏が私を取り囲んでいた。仏像をみてそれまでも、そのあとも経験したことのない感動が押し寄せ陶然とした。手足がぶるぶる震えるのを仏像に感じとられまいと平静を装い、目を合わせたら語りかけられそうな気がして目を伏せた。
いや、そうではいだろう、荘厳さとあまりの美しさに打たれ、目を伏せずにはいられなかったのだ。彼らはいまにも動きそうな気配だった。私がひとりなのをいいことに、みなければみるまで近づいてやるとでも言わんばかりなのだ。彼らは生きていた。
 
 旅から帰ってそんな話をMさんにしたら、Mさんの目にこころなしか炎がともったように感じられた。Mさんが嫉妬したのはそのときが初めてであり、最後である。ペシャワール博物館のガンダーラ仏に心を奪われたことで憮然としたのか、生身の人間をそれほど魅了するものに会いたいという気持ちが高じたのか、いまとなっては知るよしもない。
 
 
 バーミヤンの昼夜の温度差は想像を絶した。日中28℃まで上がった気温は深夜にマイナス20℃まで下がる。空気が極度に乾燥しているので28℃といっても体感温度は22℃くらいだ。深夜は眠っているからマイナス20℃は実感できない。が、北海道・紋別市の真冬の夜、マイナス18℃なら数度経験している。
本館と離れに分かれた居宅は、両方に風呂があったが、冬場は燃料(プロパンガス)を多く使うこともあり、本館の風呂のみ湯をはった。湯上がり、本館から離れへもどる50メートルのあいだにぬれタオルが凍った。びっくりしてタオルを折ったら、二つに折れてサイズダウンした。それがマイナス18℃。
 
 マイナス20℃のバーミヤンでは、ホテル本館での夕食をすませ別棟のユルト(ゲル=移動式住居)へ帰る途中、小川にかかる小さな橋を渡る。橋を渡ったときさらさら流れていた川は朝食に出た午前7時半ごろ、完全に凍っていた。しかしバンディ・アミールに向かって出発する午前9時になると半分とけて、バンディ・アミールから帰ってくると何事もなかったかのごとく流れていたのである。
 
 1973年7月、国王ザーヒル・シャー(1914−2007)のローマ滞在中クーデターが勃発、アフガニスタンの王制は廃止された。その後12年におよぶソ連侵攻、そして内戦。悲惨と激動の時代を経験したアフガニスタン。多くのムジャヒディーンの尊敬を集めていたマスード(アフマド・シャー・マスード 1953−2001)は、米国同時多発テロの首謀者アルカイダのウサーマ・ビン・ラディンが放った自爆テロによって2001年9月9日暗殺された。
その2日後ニューヨーク・ツインタワーは航空機自爆で崩壊。米国同時多発テロを予言したマスードについて毎日新聞が小さな囲み記事を夕刊に掲載してまもなくのことであった。2001年はアフガニスタンだけでなく世界にとって受難の年である。同年3月12日、タリバンがこともあろうにバーミヤンの2体の石仏を爆破、映像は世界に流れた。
 
 この事件に関して言及はできるだけ避けてきた。言えば怒りでアタマが沸騰するからである。人間の一生はせいぜい70年か80年、長い人でも100年。2体の石仏は8世紀になって南西から侵入したイスラム教徒に顔全体を削り取られたあとも生きてきたのだ。誕生から1500年を経過してなお健在だったのだ。人間なら危機がせまっても命からがら安全な場所へ逃げることもできる、しかし石仏は逃げることもできないではないか。
 
 いつか行こうと考えている人たち、行くならいまである。旅先がどこであっても、行けるときに行かなければ機会を逸するかもしれない。アフガニスタンは再訪したい国の筆頭である。1971年当時、独身だった私は未来の伴侶とともにアフガニスタンを再訪したいと強く思っていた。
 
 インドで知り合い、「いもうと」と呼んでいた松本市の木内佐知子さんは、インド鉄道のコンパートメントで夜な夜なつづく話に耳を傾け、おにいちゃん(私のこと)の行ったアフガニスタンへ行きたいと言っていた。
「遅いから自分の部屋にもどったら」と言っても帰ろうとせず、まだ宵の口みたいな顔をする。旅も中盤にかかり、アグラに着いたところで疲れがみえはじめたかと思いきや、疲れた顔をみせれば「さっさともどりなさい」と言われるのがイヤなのか、あくびをかみ殺して、まだまだという面持ちだった。
 
 インドから帰国して、インド以来のもうひとりのいもうと・新潟市の佐藤真理子さん、木内さんと行動をともにした。
その年、最愛の人を深く傷つけ、自分も傷つき、魂の深淵をさまよっていた者にとって、木内さん、佐藤さんはかけがえのない仲間だった。
インドか都内か忘れたが、口がすべって木内さんに洩らしてしまった。佐藤さんの名(姓名の名)は別れた女性と同じであると。都内のどこか、コーヒーブレイクしていたとき、何の話でそうなったのか、木内さんが「おにいちゃんの好きな人の名前」と言ったらば、佐藤さんは「光栄です」とこたえた。ふたりがどれほど私をいやしてくれたろう。
 
 Mさんについてふれたのは名だけである。なのに木内さんと佐藤さんは、Mさんが私の魂の深みに届く存在だと感じとった。それはMさんと同種の感性であり、そういう感性の持ち主が自らの経験を至高たらしめるのだ。
 
 パキスタンとアフガニスタンで、特に食べものは鍛えてきたからインドの食事に対して免疫力はあった。朝昼晩と旺盛な食欲もあり、慣れない食事と暑さにネを上げていた木内さんの同学メンバーからタフな男と一目おかれていた。インドの友から鉄人28号と呼ばれていた(「ベナレスからの手紙」2006年5月11日)Mさんほどではないにしても。
 
 下落合の賃貸マンションにいた私は居場所を失っていた。木内さんはそういう気配を察したのか、1日おきに電話してくれた。どこから情報を仕入れてくるのだろう、日印協会主催の催しに佐藤さんと3人でどうですかさそわれて行った。都内で催された展示会へも足をはこんだ。
 
 それでも苦境から立ち直れなかった私はモロッコへ逃亡した。その計画途上、「おにいちゃん、外国へ行くんでしょう。だめだよ、どこへ行くか、ちゃんと言ってからでないと」。見透かしたように木内さんは言った。
モロッコから帰国したのは夜だった、木内さんと佐藤さんが羽田に迎えにきていた。ふたりの顔をみたときの安堵と充足感は何だったのだろう。ふたりは下落合まで来てくれた。旅のみやげ話を聞きたいからと言って。時と場所をかえ、魔法使いは必ずあらわれる。自ら出現しないときは妖精を遣わすのである。
 
 木内さんの勧めで成蹊大学の神崎ゼミ(文化人類学)のゲスト講師に招かれたことがある。招かれること自体おこがましかったが、アフガニスタンの文化を中心として旅の体験を語らせてもらった。ゼミ教室に入ったらインドの面々(男性2名)がなつかしそうな顔で迎えてくれた。
 
 それから1年数ヶ月後、卒業した木内さんは帰郷し見合い結婚した。木内さんと再会できるとすれば25年後か30年後かもしれないと思った。実家は地元で有名な老舗の菓子製造会社だ。ソ連のアフガニスタン侵攻、内戦のため木内さんのアフガン行きはかなえられなかった。
お子さんを産み、元気に子育てをしていると風の便りが伝えてくれた。しかし、それからまもなく木内さんは重篤な病で逝去された。私の心の奥底に刻印を残して。再会をはたせず、時間は止まったままである。
 
 
 追懐はつづく。
平和がつづいた王国時代も場所によって山賊が出没し、バーミヤンの西75キロにあるバンディ・アミールまでの道中にも山賊は出てきた。カーブル到着2日前、車で旅していたフランス人夫婦が山賊に襲われ死亡している。バンディ・アミールへのバス旅に自動小銃を携帯した警備員2名が同乗した。ひとりはくりっとした目でやさしい顔つきのパターン族(パシュトゥーン)の若い男だったが、ときおり険しい目をして窓外を見ていた。
 
 さいわい往路復路とも山賊はあらわれず、バンディ・アミール湖の神秘的な美しさに圧倒された。前日バーミヤンに着いたときは日没をすこし過ぎていた。この日はちょうど黄昏どき、ヒンズークシの山影に沈む夕日、山の稜線と空を結ぶ巨大なスクリーンが薄桃色とミスティブルーに染まり、徐々にあかね色に変化する色の調べに息をのんだ。
カーブルでも粉雪が舞っており、バーミヤンも積もらない程度の雪が降った。3泊だったけれど、バーミヤンホテルのユルト(上の画像)は歴代最高のホテルである。
 
 パキスタン、アフガニスタンの美術館・博物館で撮影した仏像の写真の一部はMさんの卒論に使われた。卒論のテーマについて話題になることはなく、パキスタン&アフガニスタンの旅が遂行されることで卒論・写真添付の検討をはじめたと思う。
 
 東洋美術、とりわけ古代インド(現在のパキスタン・アフガニスタンが含まれる)の仏教美術を専攻していたMさんは、私が帰国した11月初旬、ガンダーラ仏の写真をみて使うかどうか躊躇しているようにみえた。が、結局11月下旬になって写真添付を決めた。写真はいったんMさんのところへ行き、卒論提出後しばらくして私のところへ帰ってきた。
 
 私と暮らしてもいいと決定づけたのは、数年の交流を重ねてさまざまな不思議を経験したことのほかに料理と肩もみ(肩と背中をもみほぐす)の腕にMさんが惹かれたからだ。「そんなことないよ」と言うだろうが。
心が決まればMさんは電光石火のごとく行動した。洋の東西を問わない美術への造詣のほかに、発信力とあふれんばかりの躍動感をそなえていた。
 
 ときおり伴侶が口にする、「Mさんに会いたいでしょう」と。会いたくないわけではない、が、会いたいとも思わない。会わずとも20代前半のMさんと時々会っているからだ。会ってもできることは、ドライブが好きだったMさんの運転手と肩もみだけである。料理の腕は鈍った。
ただ思うのは、Mさんの発表した学術論文ではなく散文ふうの文章があれば読みたい。闊達、幽艶、陰影の三拍子そろった文章はMさんの本分である。
 
 1968年秋、早稲田文庫「茶房」に置かれていた庭園班交換ノートの数行にしびれてしまった。彫刻班所属のMさんがいつのまにか投稿したのである。いまでも時々思うのだ、あのころのように濃密な日々をおくっているだろうか、手紙以外に文章を書き残しているだろうか、だれもが認める躍動感を保っているだろうか。
 
 生きることに意味があるとすれば、子どものころや青春期の自分を受けとめてくれる人がいるということだ。
それは、経験すればするほど深まる追懐の念に似ている。心は複雑にできているとしても、人生は単純でわかりやすいことの積み重ねである。十分満足のゆく生き方はできなかったけれど、これからも十分に得心のゆく時間を過ごせるとは思わないけれど、あのころのように人を愛せたこと、愛されたこと、いまのように愛せることに感謝している。
 

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