Sep. 22,2017 Fri    旅、そして旅(1)
 
 旅好きは両親ゆずりである。父は西洋音楽、西洋美術を、母は長唄、清元などの邦楽、日本舞踊を好み、私は両方のDNAを受け継いだ。
1968年11月、父が48歳で亡くなったとき思ったのは、父が行こうとして行けなかった旅すべてを完遂しようということだった。だがその前に、20代前半はガンダーラ仏をみるため西北インド、すなわちパキスタン、アフガニスタンへ行かねばならない。その後ガンダーラ仏の源流であるギリシャを旅する。
 
 計画は滞りなく実行された。旅は旅を呼ぶ。1971年秋のアフガニスタン旅行を契機にそれまで思ってもみなかった中東へ行かなければと考えるようになった。旅行は同年12月すみやかに実施されるはずであったけれどMさんがストップをかけた。年末の忙しいときに、いまのあなたに必要なのは職探しでしょ、という按配である。
それはそのとおりで、共同生活の大前提となる職のあてもなく親がかりで食を得ることはMさんの忌み嫌うところなのだ。このあたりの経緯は以前書き記したので繰りかえさない。
 
 旅はいったん1974年10月のギリシャで終わったかにみえた。だが終わりは始まりだった、別れが別のドラマの始まりであるように。シリア、イラン、ヨルダンなどが私を呼んでいた。バクトリア王国のバルフ(バクトリアの首都バクトラ)遺跡址(アフガニスタンのマザリシャリフ近郊)をみたから、そのあとはパルティアの古都クテシフォンだ。
 
 1973年10月、ジブラルタルからタンジール行きのフェリーに乗ったとき、船内で怪しげなイラク人の医者と会話した。バグダッドから来たという男はカサブランカに行くらしい。医者というより盗賊あるいは詐欺師の風体で、バグダッドの自宅の住所、電話番号まで書いて渡してくれたが、モロッコの旅の途上で紛失した。
 
 1971年12月中旬出発予定の中東の旅24日間はMさんに反対されてボツになったけれど、かたちを変え3年後に実現する。ほかのことならあきらめても旅だけはあきらめきれない。失ったものが途轍もなく大きかったとしても、そのころは若かった。20年くらい経てば傷口もふさがるだろうと安易に考えていた。
 
 旅は続けなければならない。当時、旅は目的をはたすための手段だった。何かを得るために、何かになるために旅をした。ところが早い時期に、おそらく1980年代に旅そのものが目的となってしまった。何かを得るために旅するのではない、旅をしたいから旅に出る。
 
 20代前半までの読書好きは一転し、文字から伝わることのない何かに惹かれてアジア、中東、北アフリカをさまよい歩いた。クラシック音楽も文字では伝えられないものを伝えてくれる。それは祈りに似ていた。シューベルトの未完成交響曲を「最も美しいクラシック音楽」と言った父は、「モーツァルトは急所に届かない」とも言った。その意味がわかったのは父の死後20数年経ってからだ。
 
 1969年8月初旬、はじめてヨーロッパの地を踏んだとき、爽快な気分になったのは大都市ではなく、ピサ、ハイデルベルクなどの地方都市とバーデン・バーデンのような保養地である。当時すでに大都市は車と人でごったがえしており、空気も悪かった。大都市に行くのは美術館巡りのためだ。
1980代後半には絵画全集とか美術本にのっている絵への関心がうすれてきた。それでも中学時代に注目したブリューゲルの作品は忘れがたく、大都市ウィーンの美術史美術館へ「冬の狩人」、「バベルの塔」ほか複数の絵をみにいった。
 
 ビール党の父が語っていたミュンヘンにはまったく興味がなかった。スペイン王カルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世 1500−1558)の出自、16世紀のサッコ・ディ・ローマなる出来事、カルロス1世晩年の肖像画の存在を知るまでミュンヘンは旅先の埒外だった。
人生の大半を戦争に明け暮れた敬虔なカトリック教徒。晩年になるまでスペインに足を向けることのなかった男の母親は狂女ファナである。そしてファナの母はヨーロッパにおけるイスラム教徒最後の拠点グラナダを陥落させたカスティーリャ女王イサベル(1451−1504)だ。
 
 堀田善衛は「バルセローナにて」の「グラナダにて」に、「中庭に立ってみて、謹厳殺伐にして、きわめて質素に暮らしていたカスティーリアの女王イザベルとアラゴン王フェルナンドとの二人が、もっぱら享楽と愉悦のためのみに作られたアルハンブラ大宮殿に入ったときの驚き、あるいは文化衝撃を考えることは、楽しいことに属した。」と書き記している。
 
 ファナの妹カタリナ(英語名キャサリン)はイングランド王ヘンリー8世の妃。無類の女好きヘンリー8世がアン・ブーリンと結婚するためにとある年代記作者は語っているが、離婚を認めないカトリック教皇庁に対して、そもそもキャサリンとの結婚は無効と申し立てる。
キャサリンの甥で実力者カルロス1世はヨーロッパの協調関係にひびが入るとして反対し、ローマ教皇(ユリウス2世)も結婚無効の申し立てに難色を示した。アン・ブーリンを主人公にした英国映画の名作「1000日のアン」(1970年日本公開)のビデオをみた。おもしろさに触発され、「アン・ブリンの生涯」(キャロリー・エリクソン著 加藤弘和訳)を買って読んだ。
 
 イングランド国内にも離婚反対の声は多く、「ユートピア」の著者トマス・モア(1478−1535)はその代表格だったが、ヘンリー8世がトマス・モアを処刑したのは、彼が反対に固執したからともいわれている。トマス・モアが啓発されたのはロッテルダム出身のエラスムス(1466−1536)の「痴愚神礼讃」(かつては愚神礼讃)。かれらの親交は長年にわたって続いた。
 
 エラスムスと引き合いに出されるマルティン・ルター(1483−1546)との違いは、エラスムスはカトリック教会の傲慢と矛盾を批判しながらも自由意志を尊重したが、ルターはみそもくそもごちゃまぜにした宗教改革論者で、改革のためには市民の自由も生活もどうでもよかった。ヒトラーが現れる400年前、ヨーロッパ在住のユダヤ人を大規模に迫害、虐殺したのはルターが最初である。
 
 1492年、イサベル・フェルナンド両王が署名した「ユダヤ教徒追放令」に「全財産没収、両手と背中に持ち、背負えるものだけしか携帯を許さない」との文言はある、が、命まで奪おうとはしなかった。ナチス・ドイツは反ユダヤ主義の宣伝にルターの「反ユダヤ声明」を使っている。
 
 ここまでくるともう止まらない。ファナが狂女という汚名を着せられたのは、ファナは真面目すぎて、美男の夫オーストリア大公&ブルゴーニュ公フィリップの女狂いの激しさに猜疑心をつのらせ、精神面の不安定さが顕著になったこと、そのため激昂しやすかったことが一因といわれている。
 
 フィリップの放蕩ぶりはおたわむれの度をはるかにこえていた。宮廷の侍女、召使いは言うに及ばず、ムーア人の女にも手を出し、夜の行為をこれみよがしにファナの目に入るよう挑発した。
それかあらぬか、ファナが持参した金庫を差し押さえ、母イサベルから届いた手紙、ファナの従者の手紙さえ奪ったという。これで精神状態がまともでいられるというなら、その顔を見たいものである。
 
 フィリップが美男というのはどういうものか、肖像画をみるかぎり軽佻浮薄を絵に描いたような男である。しかも目に狡猾の翳りが宿っている。ふたりはともに18歳だった。堀田善衛は前掲書に「この軽佻な夫に、それほど深いものも、精神的なものも何も認められないのではあったけれども、ファナの方は一方的に、あたかも深い井戸に落ちたかのようにして、フィリップにとらわれてしまったのであった。」と記している。
 
 2004年、日本で一般公開されたスペイン映画「女王ファナ」をみた。ファナを演じたスペインの女優が見事で、母イサベル役の女優もよかった。イサベル女王は1504年11月26日逝去する。イサベルの遺言でファナはスペイン女王として即位する。ところが、映画の筋立てでは父フェルナンドや夫フィリップが王座を狙い権力闘争へと向かう。ファナは頑として王位を譲らない。ファナを王座から追い落とすために考えられたのが、ファナを狂女に仕立てることだった。
 
 ファナについてこんな逸話が残っている。
1506年冬カレー沖の船上で突然の嵐が襲いかかり荒波にもまれたとき、積荷とともに同船していた娼婦も海に投げ込もうとした男たちに、「航行の妨げになるというのなら、女を食い物にした男たちを先に投棄すべきです。そして女を強制労働させた男たちも。というのも、王であろうとなかろうと、悪行をなした者に対して平等に罰を与えられる方(神)に慈悲を乞っているのだから」と述べたという。
 
 当時、王侯貴族や富裕商人の社会通念、常識を鑑みれば、ファナの言がどれほど非常識で奇異、もしくはおそろしい考えであったことだろう。この話が事実であれば、乗り合わせた男のほとんどが、かりに神父が同乗していても、ファナの頭がヘンだと思ったにちがいない。
 
 ファナはすでに精神のバランスを失っており、ときおり船上の逸話のごとく正常を取りもどすこともあったが、正常と異常をくり返しつつ自閉症に陥っていた。特に目立ったのは、夫フィリップと離ればなれになったときの異常ぶりである。イサベル女王もこれには手を焼いた。それらのことと、40有余年という長期にわたる幽閉、ファナが1555年満75歳で波瀾万丈の生涯を閉じたことは別稿にゆずる。
 
 ミュンヘンの国立美術館アルテ・ピナコテークにファナの息子カルロス1世の肖像画が飾られている。その絵はヨーロッパ大陸を縦横無尽に駈けぬけ、多くの勝利をおさめ、わずかな敗北を喫した神聖ローマ皇帝にしてスペイン王カルロスには似つかわしくないものである。痛風に悩む冴えない老人という印象なのだ。しかし目は生き生きしている。
 
 カルロス1世が最晩年を過ごした館がトレド゙の西、サン・ユストにある。カルロス自らが設計したといわれる簡素な館は修道院に隣接しており、館内に小さな礼拝堂もある。館の広さを見れば、おおぜいの従者を収容するのは不可能、せいぜい身の回りの世話をする数名で手一杯。3度目のスペイン行きはこの館をみたかったからだ。
カルロス1世がサン・ユストに隠棲したころ、高名なイタリア人画家ティツィアーノ(1490?ー1576)に描かせた肖像画がアルテ・ピナコテークに収蔵されている。その絵をみたいという気持ちに抗えず1996年10月ミュンヘンへ行った。父の思いはかなったのである。
 
 旅は新たな旅を呼ぶ。知識が旅を豊かにすることもある。だが経験にまさるものはない。経験が新たな旅を志向するのだ。旅に目的があるとすれば、大地の恵みのすべてを享受し、追憶と発見という果実の収穫のあと思索の種をまくことである。旅が思索をはぐくみ、思索は旅をもとめる。しかしそれは旅の帰結であって、目的ではないだろうと経験がささやく。
 
 どこに行っても、何をみても、だれに会っても、思い出すのは過去に出会った人々である。圧倒的なスケールで感動をもたらすのは旅と音楽、映像だ。映像は心のなかの風景と呼応し追懐を呼び、追懐は感動を増幅する。
 
            (未完)

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