Jul. 10,2017 Mon    ノスタルジー

 
 学生時代に経験した同好会合宿は、当時の年齢、体力、経験の浅さなどを鑑みれば若いがゆえの充実感もあり懐かしくもあるけれど、晩年にさしかかった現在、往時と同じような合宿をのぞむのは欲ばりというものだ。
私たち世代のこんにち的合宿のありようは、修学旅行や団体ツアーの過密スケジュールとおさらばし、幹事の綿密さも回避し、おおらかでゆったりしたプランの下で遂行されるものでなければならない。
 
 2006年6月9日「庭園班今昔」の末尾2行に書き記したように、京都・奈良のお寺を巡り(一日2寺ほど)、夜は冷えたビールで喉をうるおし、昔ばなしにふける。昔ばなしに興じるには少人数が妥当。できれば3〜4名、多くても5名。快適に過ごすにはそれなりの制限をもうけるほうがよい結果をもたらす。
11年前MK君が夏合宿の復活をくちにした。今回、岡山倉敷のプチ合宿(1泊程度の超短期合宿)においてMK君は、HKがチーフだった1969年、旧古河庭園見学をおこなったときの参加者を呼び、東京に集まろうと口走った。思いつきですと言っていたが、物事の発端は思いつきから始まる。
 
 以前、故OHが庭園班のみのOB会をセクト主義だと言ったらしい。そう言われたことをいまだに気にしているふうの人もいるが、単なる親睦行為をセクト主義と決めつけると、自分たちが主流で庭園班は非主流という考えが背景にあることを見透かされてしまう。言うことに事欠いてセクト主義とは大時代。他人に迷惑をおよぼさず、快適でまとまりのあるOB会が実現されればよいのだ。
 
 MK君が企画した松山&道後OB会(2013年6月初旬)は9回目だったが、それまでで最もまとまりのあるOB会になったと思う。当日は夕方の会食時まで自由行動。これは参加者の多くが松山は初めてということで、好みの観光地点に行ってくださいとの意味合いがあり、OB会前年、MK君は多くの観光資料と地図を全員に郵送していた。
 
 そして遠方からの参加者の交通の便を鑑み、集合時間を遅めに設定したのだ。翌日は松山城見学のみのゆったりプランである。昭和20年代に生まれた世代はいったん旅行に出ると限られた時間にあれもこれもと欲ばるけれど、早い話、貧乏性なのだ。体力に自信のない私は貧乏性が欠如している。
 
 今回の岡山倉敷2日間はHKの発案によるもので、どこかで会いましょうと提案したMK君の交通の便を考慮したのだが、HK自身、岡山倉敷観光は初めてということだった。それはともかく、MK君がそういう雰囲気をもっているのかどうか、いままでとはすこしちがいノスタルジックなものとなった。
 
 小学生高学年のころ、母の知人が岡山に住んでいたこともあって、年に2、3回岡山へ行った。知人の一人娘はかわいい面立ちをしており、色黒だが美形だった、しかし私の好みではなかったせいか恋心を抱いたことはない。
後年、1969年になって知人一家は父親の勤務異動があり都内に引っ越してきた。その年、高校3年になった娘が早稲田祭をみたいとのことで、案内役をつとめるよう母に依頼された。
 
 8〜9年ぶりに会う彼女の容貌は一変していた。ロクに勉強もせず屋外で遊んでばかりいたから色黒で、その下に透きとおるように白く、きめこまかい美肌が隠れていたのだ。韓ドラにチェ・ジウが登場したとき、あの娘によく似ていると思った。
大学構内の各教室で展示してあった作品、ほかの同好会の陳列物などをひととおり案内し学館にもどったらMさんとばったり会った。彫刻班のチーフだったMさんは不機嫌な顔をしていた。1970年11月、Mさんから届いた手紙を読んでもわからなかった不機嫌顔の謎が解けたのは1971年になってからである。
 
 倉敷にはSさん夫妻がいた。Sさんと知遇をえたのも母を通して1980年ごろのことだ。Sさんは倉敷のオーナー病院長で、京大医学部インターン時代に知り合った奥方は母と懇意だった。
年に数回関西に来られ、京都、大阪の老舗日本料理店で会食をともにし、Sさんの招きに応じて倉敷を何度も訪問した。お互いの行き来は宿泊つき、宴席の時間を気にしなくてもよかった。1980年代の前半、京都なら高台寺近くの「京大和」、古き良き時代の嵐山「嵐亭」、大阪では名料理人がいたころの「なだ万」。倉敷は往時の「鶴形」。
 
 しかしSさんとの交流が深まるきっかけになったのは、話題が少年期の思い出におよんだことによる。私の少年時代は戦後だが、大正12年生まれのSさんは戦前の昭和初期、備中・高梁で少年時代をすごしている。
家を一歩出れば遊び場だった。小川(高梁川の支流)の流れを堰き止め、フナやなまずを生け捕りにした。おもしろいほど沢山の川魚を手づかみにできた。そんな話をしているときのSさんの顔は少年時代にかえっていた。話に聞きいる私の顔をみて、同様の経験をしていると察知したSさんの顔はかがやきを増した。互いの気持ちが通じ合う瞬間である。
 
 
 そうなのだ、岡山倉敷は思い出のいっぱいつまった町なのである。HKもMK君もそのことを知らない。あえていう必要もないので黙っている。私にとってのプチ合宿はそうしたもので、その種の追懐を語れば数泊しても足りない。
参加者3人でも十分に語りあえない。18人、20人となれば会話時間はほとんどないし、内容もあたりさわりのない話に制限される。うんざりするのは、経験の浅い学生然として知識を披露する人である。講釈はノーサンキュー。
 
 岡山後楽園(上の写真)であったか、岡山城であったか、歩きながらMK君は言った。「中国が気に入って何度も行ったのは、昭和30年代の日本が残っているからです」。特にMK君にはそういう雰囲気が残っているような気がする。
畢竟、私たち3人が密かにもとめるのはノスタルジーなのかもしれない。7月初旬、岡山も倉敷も暑かった。何を語り合ったか忘れても、会ったときの心地よさは忘れないだろう。
 
 倉敷美観地区の喫茶店でこういう問いかけをした者がいる。「新聞を読むとき、真っ先に読むのはどこか」。期せずして同じこたえが返ってきた。各々の理由は異なっても最初にみるのは死亡欄。
ほかのことはともかく、死亡欄のことは記憶にとどまるような気がする。いつかまた会うときがくると思うが、あと何回会えるのか定かではない。そんなに多くないことだけは確かである。

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