Dec. 21,2016 Wed    東京組曲(2)
 
 学生時代を追懐すると瞬時にそのころにもどる。それに勝る追懐がほかにあるだろうか。私は未来だけをみる人間とはなじめない。国家とか企業、組織、一家なら未来だけでいいかもしれない。一家といってもさまざま、過去を語ることによってつながりを深める一家もある。
最近、断捨離の必要を認識しはじめ、ムダの元を断つ、不要なものは捨てる、欲と未練から離れるを生活の基本とするようになった。断捨離本来の意味はどうでもよく、特に離は欲とおさらばするという意味を持っていると思うが、欲は早々に離れているのであえて未練も記した。かけがえのないもの以外のすべてから離れてもかまわないのだ。
 
 他者への迷惑を顧みず行動する人間とはなじめない。われが、われがと自己主張をくりかえすのはわがまま老人の特徴。その場の空気を読めず、やたらと講釈したがる人間はさらになじめない。自分へのエクスキューズに腐心するより新鮮な空気を吸うほうがいい。晩年はよくよく気をつけねばならない。漫然とすごしていると猛スピードで老いが襲いかかり、アクセルとブレーキを踏み違えたり、高速道路の逆走状態に陥ってしまう。
 
 それにしても、飽きもせず同じ人のことを書きつづけたものだ、11年(初出は2005年12月20日「手紙」)もの長きにわたって。学生時代の私を知っている者、多くは1年下の後輩(MY君、KY君など)であるが、彼らは私を熱しやすく冷めやすい人間と思いこんでいたし、現在もそう思っている。そういう思いを裏切ってわるいけれど、かけがえのないことであれば熱したまま冷めないのだ、あなたがたと同じように。
 
 記憶装置のメカニズムはともかくとして、経験からいえば記憶力には著しく個人差があり、東京在住の同期HHなんかは、仕事に関することはおぼえていても学生時代のことはほとんどおぼえていないと言っていた。HHの奥方は古美研の同じ班で同期、それでもおぼえていないなら、両者ともに当時の話題を避けていたのだろう。
なに、つごうのわるいことを忘れたり、とぼけているだけの話なのだが、本人がそう言っているのに否定はできない。ほんとうに記憶が消えているのなら、「どうしたら思い出せるのだろう。何か秘訣があるのか」とは言わない。余計なことを口走るからウソとわかるのである。
 
 特定の事柄について記憶しているのは、伴侶に話すことで記憶が定着したからだ。若いころから若年寄とみなされてきたこともあって、同じ話をくりかえししてきた。記憶が定着するのは当然である。
そのあたりまではどういうこともない。が、眠りに陥る回路がショートして電流が流れず不眠症をおこすように、忘却の回路がショートして覚醒状態がつづくとタイヘン。不眠症ほど深刻でないとして、寝ても覚めても同じ人が頻繁に出てくるのもどうかと思う。
 
 記憶にはどうあっても忘れないことと、どうあっても忘れることがあって、当人にとって重要な、もしくはかけがえのないことは記憶にとどまり、そうでないことはいとも簡単に記憶から消える。
そんな大切なことを忘れるなんてと思われればおしまい、好ましい人間関係はつづかない。父が娘の重大事を忘れたり、ごまかしたりすると父に対する娘の信頼はくずれる。その点息子は、このバカオヤジですむこともある。
 
 と、ここまで書いてきてつくづく思うのは、私たちには記憶とは別の回路があって、それが作動すると摩訶不思議な世界に導かれることもあるということだ。どういうことかといえば、未来だけをみている人には理解しにくいかもしれないが、だれにも話さず、したがって前述の記憶の定着もなく、それでも忘却の彼方の出来事を瞬時に精確に思い出しうる回路というものが存在するのである。
 
 数十年前に封印したはずの過去、あるいは消滅したはずの過去はよみがえることさえはばかられ、自ら出現することはない。しかし私たちは「魂の通り道」とでもいうべき道を持っており、そこから過去が突然あらわれる。
好むと好まざるとにかかわらず、魂の通り道からは記憶の奥底に埋もれたなまめかしい出来事も運ばれてくる。愉悦や交歓も至高の経験の一部なのである。人を酔わせてこそ酔わされた魂は生きつづける。ほろ苦い経験はほかの道を通るだろう。未来だけみる人は魂の通り道を必要としない。
 
 魂の通り道は、さいわいなことに閉ざされることがない。ほかの道のように失われることもない。その道は甘美な思い出をもたらすだけでなく、高熱でうなされている長男の顔を心配そうに見ている父親が通る道であり、長男のわがままを理解した上で海外旅行の資金を出してくれる母親の通る道であり、死後も心のなかで生きつづける人たちが行き来する道であり、魂の救済をもたらす道でもあるのだ。
 
                                             (未完)

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