Dec. 16,2016 Fri    東京組曲(1)
 
 寒い日がつづくと思い出すのは昭和43年の晩秋、渋谷駅前「二子玉川行き」のバス停、そしてショートケーキである。あれは11月下旬、木枯らし一号が吹いた夕暮れだった。高田馬場で渋谷方面への山手線に乗ったら、同じ車両のドア近くにKMさんがいた。以前も私どうよう渋谷で降りるKMさんと車内で会ったことがある。まだ大学1年生、同じ同好会に所属していても、簡単な挨拶程度で話らしい話をしていなかったので、車内で会っても共通の話題はすくなく、渋谷駅で別れ際にサヨナラをいうくらいだった。
 
 が、そのときはいつもとちがった。どういうわけかKMさんは盛り上がっていた。渋谷で降り、改札口をぬけ、KMさんはバス停へ、私はバス停左横の歩道橋を上がって南平台方向へ向かうはずだった。
「下宿、行っていい?」、突然KMさんが言った。1週間ほど前、古美研野球大会が世田谷グランドでおこなわれ、グランドは世田谷区民のKMさんが予約してくれた。その日も寒い日だった。途中応援に来たKMさんは墨色のふかふかブルゾンを着て、2年先輩のUKさんのそば近くで観戦していた。野球大会については下のバナー「庭園班OB会」の「思い出す人々」の「最初で最後の野球大会」に書き記したのでくりかえさない。
 
 下宿、行っていいもなにもないだろう。当惑した気配を察したのかKMさんの視線は私の足下に移った。「女人禁制なんだ」、KMさんに思いを寄せる同期の男の顔が浮かびデタラメを口走った。その点は確たる理由があったけれど、口はしどろもどろ、しかし気持ちは女人金星、昇り調子だったような気もする。
気まずい沈黙を取り払うかのごとくKMさんは「寒いね」と言った。何か言わねばと思い、「お茶とケーキでもどう」と言うと、「そうしようか」とKMさんがこだわりもなく自然に言ってくれたのでホッとした。
 
 渋谷駅前の「フランセ」というケーキ店&喫茶店でショートケーキと紅茶を注文した。そのときの会話はほとんど忘れてしまったが、野球大会や古美研の話は出ず、最近読んだ本とかみた映画について語らったと記憶している。当時よくしゃべる私はもっぱら聞き役、ふだんは寡黙なKMさんが饒舌であったと思う。木枯らしに背中を押されたKMさんは、いくらか大胆になっていたのかもしれない。KMさんはとびきりのお嬢さん、しかも美しい面立ちをしていた。
 
 いつだったか、何回目かの庭園班OB会が催されたとき、名古屋にあるテレビ局社長をやっている1年後輩U君が話の最中、「Iさん(私のこと)といえば女性」とロクに知りもしないのにたわごとを言った。なんじゃらほい、U君の奥方は庭園班の後輩だった女性ではないか、よっぽどU君のほうが「といえば女性」である。
同好会の同期とか先輩後輩同士の恋愛はよくあることだ。女性に夢中になったことはある。伴侶のほかに特別な女性はひとり。特別だから夢中になったのではない、夢中になったから特別なのだ。
 
 長恨歌は避けたいところであるが、過去は長恨歌でなくむしろトラウマになった。夢のなかで共に暮らす日々や、吊り橋から落ちて、抱き合いながら流れに身をまかせるような夢をみればますますトラウマになるというものだ。その女性Mさんのことは読者がミミタコになるほど書いた。それでもまた書いているのはなんだろう。「映画生活」にも1、2、3回も書いた。4回目はないと思ってもさにあらず、タイトル名を「東京組曲」に変えた。
 
 ある日、「海がみたい」とMさんがいきなり言う。以前ほかの人たちと稲村ヶ崎へ行った話をしていたからそのうち来るかもしれないという予感はあった。やはり来た。行くなら鎌倉のような近場ではなく遠くの海に行こうと私は言った。そのほうが遠くまで来たという実感がある。そこで思いついたのは御前崎である。
当時の御前崎は車で道路から浜辺に降りていけた。眼前に広がる太平洋、人のいない砂浜、円い水平線。途轍もない広さは漠然とした不安を生むことがある。三度目の御前崎。東海関東に台風が接近するのは3日後であるのに、海は大きくうねり、日が暮れようとしていたせいか不気味だった。「帰ろうよ」、Mさんが言った。私たちの未来を暗示しているかのような海のにび色は鮮明に残っている。
 
 渋谷から下落合に引っ越した日、私はのっぴきならない事由があって行けなかった。引っ越し先の賃貸マンションは西武新宿線「下落合駅」から徒歩3分の2LDKだった。賃貸契約の日も行けなかったけれど、契約はMさんがしてくれた。引っ越しの手配、引っ越し当日の家具・電化製品・台所用品・衣類もMさんがぜんぶ手配した。後日私は身ひとつで引っ越した。
 
 語られたことはすべてではない。語れらなかったことに較べれば語られたことは微少である。Mさんも私もある意味秘密主義だった。私たちの交際は、Mさんの周囲にも私の周囲にも気づいた人はいなかった。現在も知る人はわずかだ。そのひとりがMY君。あれは昭和46年、深まる秋の早稲田鶴巻町界隈、都電早稲田駅の手前に駐車していた車に乗るところをMY君が見ていた。
そのことは数年後MY君本人から聞いた。MY君は都電に乗ろうと歩いていたらしい。MY君の目に私たちがどう映ったかわからない。そう映るしかないように映ったのだろう。それから5年ほどたち、Mさんが結婚し男の子が産まれたとMY君が話してくれた。その後女の子が産まれたと話していた。
 
 MY君は私たちの交際についてだれにも語らなかった。2007年初夏、MY君が語ったのは自らの交際に関してである。「きのうのことです」、MY君はぽつりと言った。MY君たちとみた決して美しいとはいえない東京の風景、学生会館をあとにして歩いた早稲田通、ささやかなやすらぎ、きのうとはすこしだけちがう夕暮れ。
Mさんと過ごしたかけがえのない日々。あの日、もう愛していないのですかと手紙に書いていたMさん。居場所を失い、インドへ逃亡し、モロッコを転々とした愚かな男。
 
                     (未完)

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