Jan. 05,2017 Thu    東京組曲(3)
 
 あの日も寒かった。骨が凍りそうだった。時は1987年3月半ば、所はエル・エスコリアル修道院。それとわかる顔をしていたのだろう、修道院内コーヒースタンドの女将がいかにもという感じで笑った。「アイスボックス、ノーファイア」と大きい目の女将は言った。そのとき飲んだカプチーノの熱かったこと、うまかったこと、ありがたかったこと。
ふだん濃いコーヒーはパスするけれど、それにカプチーノは中煎りに近い浅煎り豆を使うはずだけれど、あのときばかりはとびきり熱く濃くないと冷えきった身体は温まらなかったろう。私の顔を見て女将は、「この時季熱いのが一番」とでも言いたげにまた笑い、人のよさそうな亭主がうなづいた。
 
 エル・エスコリアル修道院はマドリードの北西45キロにあり、修道院と博物館、図書館をかねた複合施設で、16世紀にフェリペ2世が建てた。そうはいっても行ってみればわかるが、見学者にとっては巨大な墓所そのものであり、カルロス1世以下歴代の王と家族の棺が部屋々々の仕切られた壁面に累々と積まれている。棺の多さと厳しい寒さにより私たち夫婦は棺桶ツアーと名づけた。
 
 そんなエル・エスコリアルがなつかしいのは、なつかしさは通り一遍のものではなく、劇的な何かが内在し、身体がそれをおぼえていることによっていっそう募るということなのだ。学生時代の仲間に劇的な何かをもとめることはないし、劇的経験を共有したこともほとんどなく単になつかしいだけである。そういうことに気づいたのは数年前で、それまではなつかしさがテンションを高めていたにすぎない。
 
 あれは2006年か2007年であったか、電話口でこんなことを言った後輩女性がいた。「誰も助けてくれません」
特に逼迫した状況ではなかったし、そういう話題でもなかったが、日常が逼迫しているという強迫観念が彼女にあったのかもしれない。ほかのことはよく思い出せないのに、ことばだけが記憶の底に残っている。
助けてくれる人のいない状態が長引けば魂の安息できる時間は少ないだろう。魂の安息地がみつからなければ精神は追いつめられ、事態は好転しない。安息地がみつかっても好転するかは不明として、安息地がみつかれば魂は救済される。
 
 この世に欠かせないのは魂をつなぐ道だ。その道を行き来してさえいればおのずと救済がみえてくるような気がする。その道をみいだすために自己省察の階段を上がったり下りたりした。そんなことをしなくてもみつける人もいるだろう。だが私は、自省と自責を積み重ねなければ魂の通る道を行き来できなかった。逆説的ないいかたであるが、自省と自責の念はその道から運ばれたのだ。 
 
 私がインドへ逃亡する1ヶ月半前、Mさんはインドに旅立った。帰国後Mさんはすぐ連絡しないと思った。連絡できない状況に追いやったのは私である。私がモロッコを転々としているとき、Mさんから届いた手紙に「Iさんが血を吐く夢をみた」と記されていた。たしかに私は血を吐いた、肉体からではなく精神から。
 
 十三代目片岡仁左衛門が二代目中村鴈治郎と立った最後の舞台は「新口村(にのくちむら)」である。深く積もった雪。雪より深い父子の情け。鴈治郎が忠兵衛、仁左衛門が孫右衛門。仁左衛門は語る、「成駒屋(鴈治郎)がいつまでも私の手を離さへんのです」。
Mさんなら言うだろう、あたしの人生のよろこびやかなしさが他人にわかるくらいなら、あたしの人生はむしろ貧しかったと。能、歌舞伎、クラシック音楽など歌舞音曲に傾倒していたころ、それらは時として過去の記憶をよみがえらせた。客席にいるのに舞台を離れ、心の風景をさまよった。
 
 旅をしても過去はついてきた、魂の通り道を通って。なつかしいとは思えない過去、忘れたはずの過去さえまぎれこんでいた。魂が自らの血路を拓いて流れ出したのだ。家族とは何か、愛憎とは何か、流れは蛇行しながら勢いを増し、止まることはなかった。
                                              (未完)

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