Apr. 30,2016 Sat    映画生活(3)
 
 1971年は映画のほかに舞台、外国人歌手の来日公演をMさんとみる機会が増えた。
舞台は劇団四季の「白痴」、歌手はシャルル・アズナブール、ジルベール・ベコーなど。ベコーは1970年になると、それまでのレコーディング中心からツアーを主体にするようになり、1971年秋だったと記憶しているが、新宿にあった東京厚生年金会館で日本公演をおこなった。アズナブールはベコーの公演前、上野の国際会館で来日公演をおこなったと記憶している。
 
 日生劇場でおこなわれた劇団四季公演「白痴」の主役ムイシュキン公爵には新人・松橋登が抜擢された。ドストエフスキーの作中人物ムイシュキン公爵はそのころ原作を読んでいないのでわからなかったけれど、小林秀雄のエッセイに出てくるムイシュキンに近いかもしれない。
繊細、痩身、世間知らずの善人といった外見、特徴は当時の松橋登のガラである。だが張り切りすぎたのか緊張したのか、助演の三田和代、日下武史に較べると見劣りした。観劇後、「線の細いのが良くもありわるくもあり」とMさんは言った。
 
 「白痴」の詳細については、昔のことでも急所に届いているなら記憶に残っているはずであるが、そこまではいかなかったこともあり評にかけることはできない。夜の観劇は中途半端な時間帯なので銀座1丁目まで歩き、「イタリー亭」で夕食を終えると23時近かった。
携帯電話のない時代でもあったけれど、Mさんの父親が化学研究所勤務で高崎へ長期出向しており、母親もおおむね高崎にいたことから、自宅にはMさんの妹(青山学院大)しかいなかったのをいいことに深夜の帰宅が度重なった。いまにして思えば、ミコちゃん(Mさんの妹‥書き句け庫2006.2.13「姉妹の料理番」)にずいぶん迷惑をかけました。
 
 そのころ、日比谷の映画街で待ちあわせ、日生劇場も日比谷にあるから同じ場所でおちあった。「カレーが食べたい」とMさんが言うと、新宿へ出て「中村屋」のインドカレーを食べることもあった。中村屋のカレーは辛さよりコクと濃さに重きをおく私たちの好みに合い、中に入っているチキンは包丁をどう入れたかバラのつぼみの形をして美味、Mさんは「やみつきになりそう」と言った。
カレーだけでは食欲旺盛なMさんの胃袋を満たすことはできずシャシリック(子羊の肉片を串刺しにして焼く)も食べた。Mさんのパワーの源はそこにある。中村屋はインド料理のほかにロシア料理もやっていたのだ。
 
 新宿で食べるときは伊勢丹会館のスペイン料理「エル・フラメンコ」も時々利用し、初めてサングリアを飲んだのもエル・フラメンコだった。赤坂見附の「シチュー・ド・ケテル」で食べたビーフ・シチューの味についてMさんは、「Iさんのつくったビーフ・シチューのほうがおいしい!」と言っていたが、それは私のビーフシチューはスネ肉を使わずモモ肉を使い、味付けは何度もアク取りをして、あっさりした味のなかにコクを出したからである。
 
 さて、ジルベール・ベコー(1927−2001)とシャルル・アズナブール((1924ー)である。シャンソン歌手ふたりを見いだしたのはエディット・ピアフだ。ピアノの達人ベコーはもともとピアノで身を立てようとしていたのだが、1953年ごろ、ベコーの歌手としての才能を評価したピアフは歌手になるようベコーに強く勧めた。
 
 アズナブールはそれより7年前の1946年ごろピアフに認められ、ピアフのツアー(仏米)に同行した。2016年6月、アズナブール日本公演が予定されている。実現すれば92歳でステージに上がる。日本で丸山明宏が歌った「メケ・メケ」(1954)はアズナブール作詞、ベコー作曲で、1971年来日公演のさいベコーが歌った。メケ・メケの由来は変わっていて、興味のある方は検索されたい。
 
 ベコーとアズナブールのスタイルは対照的で、ベコーが動ならアズナブールは静、ベコーの歌はドラマティック、アズナブールの歌はストイック。アズナブールは映画「ピアニストを撃て」、「アイドルを探せ」、「シャレード」など、ベコーも「遙かなる国から来た男」、「カジノ・ド・パリ」、「モンテ・カルロ それは薔薇」、「マイ・ラブ」などに出演、「遙かなる国から来た男」(1956)ではフランソワーズ・アルヌール(1931−)と、「マイ・ラブ」ではスイスの名女優マルト・ケラー(1945− 近年「ミケランジェロの暗号」に出ている)と共演している。
 
 Mさんと私が惹かれたのはベコーだった。東京厚生年金会館で何度か衣装を替えて出てきたが、ネクタイは決まって水玉模様。水玉のネクタイはベコーのトレードマークなのだ。ベコーの持ち歌のなかで「ナタリー」(1964)と「そして今は」(1961)が特によかった。「ナタリー」は作詞ピエール・ドラノエ、作曲ジルベール・ベコー、「そして今は」の作詞作曲もドラノエとベコーである。
 
 「ナタリー」の出だし、「赤の広場はガランとしていた。ぼくの前をナタリーが歩いて行く。きれいな名前だ、ガイドのナタリー。赤の広場は一面の雪。寒い日曜、ぼくはナタリーについて行く」(訳出)から力強く野太い声に引き込まれ、数曲聴くうちにベコーの息に合わされてしまうのだ。
 
 現在に至る45年のあいだ、ベコーの「そして今は」の歌声とメロディがときおり耳元で鳴り続けた。ふたつ前の席に座っていた女性をみて「鳥飼久美子よ」とささやいたMさんの声とともに。
「今となってはどうしたらいいのだろう、ぼくの人生に横たわる長い時間、ぼくのまわりのどうでもいい人々。君が去った今となっては。(中略) そしてある夜、鏡をのぞくと旅路の果てがはっきり見えるだろう。一輪の花もそそがれる涙もなく、旅立つ今となっては。何もすることはない、何も」(訳出)。
 
 映画館と劇場の合間を縫うように美術館に通った。ある日、「目録は一冊でいいよ」とMさんは言った。スーティンの絵画展で買ったのは一冊だけだ。目録の背表紙の裏にM&Fと書き記し、「あたしとIさん。メゾフォルテでもあるけど」と言って、「どちらかが買えばいいのよ。持つのは払ったほう」と言葉をつないだ。しかしスーティン目録の代金を払ったのはMさん、持っているのは私である。
 
                                     (未完)

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