Apr. 22,2016 Fri    スポットライト
 
 映画生活(2)の続きにしては内容が異なるということもあって、4月19日にみた映画のタイトルを表題にした。スポットライト(2015)は久しぶりにこれはと思える米国映画である。その理由をいくつか挙げる。まず出演者全員がうまい。2002年公開の英国映画「ゴスフォード・パーク」以来で、本邦公開作品にかぎっていえば米国映画にはなかった。
 
 具体的に述べると、役の対応力が傑出している。外見がそれらしくみえるガラは身体と雰囲気が役に適しているということ(ジャック・ニコルソンはスーパーマンのガラではない)であり、ガラがわるいと評判もわるい。ガラは先天的な身体条件であるが、後天的な条件であるニンは役者自身がきずきあげる。
ニンは表現に生かされ、劇中の人物があたかもそこにいるかのように体現される(片岡仁左衛門は大星由良助のニンである)のはニンによる。ニンは対応力なのだ。歌舞伎用語のガラとニンは役者すべてに敷衍できることばであるだろう。
 
 映画にもTVドラマにもいえるのは、うまい役者は演技の幅が広いということで、古くはアレック・ギネス、新しくはユアン・マクレガーなどが該当する。いずれも英国の役者で、巷には器用貧乏ということばもあるけれど、芸達者は役を追体験するかのごとく丁寧に追う。そうすることにより役とのすりあわせをおこない、内面にせまるのである。
器用だからではなくむしろ不器用だから自らに修行を課し、時間をかけて学習し修得する。それなくして役者稼業は成り立たない。役者の心得とはそうしたものだ。人のまねをすると、その人のわるい部分だけが出ると言ったのはだれであったか。
 
 出演者全員がうまくてもストーリー展開と演出が稚拙だとドラマが損なわれることもある。スポットライトはボストンに実在するローカル紙「ボストン・グローブ」に置かれたスポットライトという特集記事欄の名で、人員5名の各記者が独自に調査した事実を記事にする。
記事内容が新聞社に不利益をもたらす場合‥購読者の半数が購読取りやめのおそれがあるとか、大スポンサーが圧力をかけてくるとかの場合‥について言及すると、概ね記事はボツにされるだろう。新聞社すべてではないが、購読者が記事に関心を持つかどうかの判断を十分検討せず、そうやって新聞は社を守ってきた。
 
 ボストン・グローブ紙に着任したばかりの編集局長の方針は、ボストン・グローブ紙購読者の半数がカトリック信者であるけれど、購読者の大半が関心を示せば、巨大組織カトリック教会から圧力をかけられても社は存続するというものであった。
デスクも記者もわが意を得たりの心持ちである。そこからが映画の真骨頂であり、スポットライト担当記者5名と局長の総力を挙げて難局を切り抜けてゆくプロセスに鳥肌が立った。
 
 米国映画得意の派手なアクションなし、出演者のスタンドプレーなし、特定の人物のヒーロー化もなし、要するにとってつけたような演出は一切なし、脚色も地味で、ひたすら面倒で込み入った調査を積み重ねる。それを飽きないどころか目を釘付けにしてしまうところがすばらしい。
映画はカトリック教会の暗部を告発すべく地道に取材する記者たちの物語なのだが、下の画像のとおり左からマイケル・キートン(デスク)、リーヴ・シュレイバー(編集局長)、マーク・ラファロ(記者)、レイチェル・マクアダムス(記者)、ジョン・スラッテリー(部長)、ブライアン・ダーシー・ジェイムズ(記者)。局長と部長を除く4人のリーダーはマイケル・キートンである。
 
 神の代理人たる神父が貧しい信者のおさない子らを性的陵辱するという事実が発覚する。子どものころは両親、特に母親が表沙汰にするのを避けたが、子が長じてその体験がトラウマとなり自殺者が出たり、泣き寝入りすることに耐えかねて弁護士に提訴を依頼する。しかし巨大なカトリック教会の顧問弁護士が示談にもちこむなどしてうやむやにする。
それでも何とか告発すべきと考える被害者がいる。そういう人々の受け皿になる者は稀少であり、スポットライト取材陣があえて行動をおこす。次々に意外な事実が明かされ、取材陣は核心にせまってゆく。
 
 デスクはいう、「神父の罪を隠蔽した枢機卿個人ではなくカトリック教会という巨大組織の罪を告発することが重要なのだ」。個人を追及するか、組織を追及するか、畢竟、目に映る未来のかたちの違いが思考を決定づける。
心がこわれたまま人生を過ごしている人々がいる。子どもは甚大な被害にあっても人に言えないことがある。彼らの人間としての誇りを取り戻すには巨大組織の実態をあばき報道するしかない。調査を続けるうちに、子どもを陵辱した神父の数は90名近くに達し、やっとの思いで記事にするめどが立ったとき世界を驚愕させる事件がおきる。
 
 2001年9月11日、ニューヨークで勃発した同時多発テロである。この映画の巧みなところはテロの映像を流さなかったことだ。それはなぜか。わざわざそうしなくても映像は記憶に刻まれ、だれにでもわかることだからだ。名作は余計な映像を流さず、余計な説明もしない。
ニューヨークへ約370キロのボストンは地理的にも心情的にも遠くない距離であり、まして米国民として許容できないテロであるのだが、法の下に断罪可能なテロリストと断罪できない罪人を較べれば、断罪できない罪を白日の下にさらすこともまたジャーナリストの大義ではないか。9月11日以降スポットライト取材陣がどう行動したか。これは映画をみるほかない。
 
 スポットライトはメディアに関わる人たちも、そうでない人たちをも啓発するかもしれない本年度ベスト3に入る傑作であり、みざるは一時の得、みるは一生の得ともいうべき作品である。
局長役リーヴ・シュレイバーのうまさが際立ち、マイケル・キートンの秀逸さが横溢し、マーク・ラファロはものの見事に新境地を拓いた。この作品を契機にレイチェル・マクアダムスのさらなる活躍も期待される。
 
 


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