Apr. 07,2016 Thu    映画生活(1)
 
 物心がついたとき映画をみていた。まだテレビが普及しておらず、町の小さな映画館は3本立て大人40円、小人30円だった。が、タダでみた。1学年下に映画館の守衛の子がいて、映画館の裏にある守衛の家‥といっても2部屋と台所だけ‥の裏扉を開けるとスクリーンの裏側に出ることができた。東映全盛時代時代劇でもあり、片岡知恵蔵、市川歌右衛門の主役映画が多かったけれど、贔屓は「怪傑黒頭巾」や「むっつり右門」の主役をつとめた大友柳太郎だった。
 
 大友柳太郎については別稿にゆずるとして、独身時代の家内がN航空の地上勤務(空港内担当分野は広範囲)をしていた1975年のある日、たまたまチェックインカウンター業務に携わっていた家内の前に大友柳太郎があらわれた。りゅうとした出で立ち、やわらかな言葉遣いと自然な物腰、やさしい目が印象に残ったという。後日その話を家内から聞いたとき、さもありなんと思ったものだ。
 
 小学校3年のある日、弟と阪急電車の塚口駅から電車に乗り、梅田駅まで行こうとしたが、昼間なのにひどく混雑していて、梅田の一つ手前の「中津」駅で降ろされホームに出されてしまった。乗ろうとしたがドアが閉まり置き去りにされた。しかたなく中津から梅田まで歩いたが、このまま用をすませて家に帰るのも能がない、行きがけの駄賃に映画でもみていこうと歩きながら思った。幸いにも子ども二人分の映画賃はポケットに入っていた。 
 
 梅田の映画街にはところせましと大看板がかかっていて、なかでも石原裕次郎の「紅の翼」が目に飛びこんできた。「嵐を呼ぶ男」ほかで人気の的だった裕次郎をみるのも月並だったけれど、紅の翼というタイトルにつられて映画館に入った。入場料は3本立て30円の映画館より高かった。帰りの電車賃ぎりぎりをポケットにねじこみ、アイスクリームも酢昆布も買えないがかまわないかと弟に聞くと、ほしくないと弟は言った。ある種のやせがまんである。
 
 紅の翼はもっぱらタフガイを演じてきた裕次郎が別の一面をみせ、二谷英明の好演もあっておもしろかった。その数ヶ月後、洋画の世界に足を踏み入れたこともあり邦画に見切りをつけた。邦画をみたのはそれから16年後「砂の器」だ。
小学校4年から中学3年にかけてみた洋画で印象に残っているのは「紅はこべ」、「三銃士」、「レ・ミゼラブル」、「80日間世界一周」、「十戒」、「ベン・ハー」、「草原の輝き」。高校時は「リオの男」、「黒いチューリップ」、「ジェーン・エア」、「007 ロシアより愛をこめて」、「グレートレース」である。
 
 東京で学生生活を送っていた当初、まかない付の学生センター(下宿)が渋谷区鶯谷町(南平台の隣)にあったので、渋谷駅に近い東急ビル上階にある映画館でみることが多かった。古美術研究会の2年先輩とみにいったのが「卒業」、学校を途中で脱け出し、その女性と高田馬場から渋谷まで電車。あいにく座席は満杯で階段状の通路で立ってみた。
ときおり気になって先輩のようすをうかがったら、にっこり笑っていた。それから10年後、「微笑みがえし」という歌を若い女性グループがヒットさせたが、歌詞を聴いて先輩を思い出した。大理石のように透きとおるなめらかな白い肌の人だった。
 
 晩秋のある日、渋谷駅前のバス停留所で「下宿行ってもいい?」と同期の女性に尋ねられ、一瞬ことばに窮したが、「女人禁制なんだ」と返事した。落ち着いて言えたと思う。落ち着いていたのは同期の男ふたりがその人に思いを寄せていたからだ。ひとりは早稲田文庫「茶房」に置かれた交換ノートに「びちょう子」と書き、数回メッセージを送っていた。彼らの金星が禁制になるのは立場のちがいと仁義による。
 
 落ち着き払って「女人禁制」と言ったつもりがニョヌンキンシェイとでも言ったのだろうか、ウソはみぬかれていた。19歳にしてはおとなだったその人が「ウソでしょ」とは言わず「寒くない?」と言い、同い年の私が「寒いね」とこたえ、東急百貨店東横店2Fの「フランセ」に入ってショートケーキとお茶を注文した。
時を惜しむように話をしたのだろうか、記憶は消えている。品のある美しい面立ち、やわらかな物腰、節度あるふるまい、きれいな言葉遣いなどが整った飛びきりのお嬢さんである。あのとき停車場でひゅうと鳴く木枯らしに押され、いくらか大胆になっていたのかもしれない。
 
 それから2年近くたち、本格的な映画館通いが始まる。相手は女人禁制の女性ではない、三島由紀夫の講演が大隈講堂であり、講演が終わって外に出、学館前にさしかかろうとしたとき、ばったり出会った女性である。会話は短かったけれどはっきりおぼえている。「三島の講演、聞いたの?」 「あぁ、」 「どうだった?」 「よかったよ」 「春の雪持ってる?」 「持ってる」 「読んだ?」 「読んだ」 「貸してくれる?」 「いいよ」。
 
 そういう会話があって数日後、帰省していた私の実家に手紙が届いた。その人は私のことを「Mr エアーさま」と書き記していた。なんのことかわからないと思ったのか、こうも書いていた。「ふだんは空気なんて意識しないけれど、なくなったら息ができない」。殺し文句である。
コロっといかれたのは高校2年以来だった。思いを寄せる相手から思わぬせりふを聞かされるという経験を10代半ばと20代初めに一度ずつして、運の半分を使い果たしたような気分だった。しかし幸いにもカードは半分残っていた。
 
 その女性とは昭和45年11月から昭和48年6月にかけて頻繁に逢った。逢わない日がつづくとお互いの精神衛生上よくないと彼女は言った。頻繁に逢い疲れがたまってケンカするのと、逢わなくて不満が鬱積してケンカするのとでは結果は同じでも行程は別物だ。どちらが納得いくか考えるまでなかった。
冬休みで帰省したときもその人は神戸の親戚の家に数日泊まり、当時西宮市苦楽園に住んでいた私と苦楽園駅で待ちあわせ、近隣の美術館や奈良方面へ出かけた。日吉館の横にあった下々味亭(かがみてい)のお昼を食べ、あたしがと言い勘定を払ってくれたこともある。
 
 映画館は日比谷の「日比谷映画」、「みゆき座」、「日比谷スカラ座」など洋画上映館、たまに京橋の「テアトル東京」でみることもあった。映画終了後、日中なら帝国ホテル1Fのコーヒーハウスでババロアを食べ、夕食どきは銀座1丁目の「イタリー亭」でパスタ料理、主にカネロニやラザニアを食べた。映画をみたのは昭和45年の年の瀬から昭和47年3月ごろだった。
 
         (未完)

前頁 目次 次頁