Mar. 26,2016 Sat    Mr.ホームズ 名探偵最後の事件
 
 2016年3月18日、英国&米国合作「Mr.ホームズ 名探偵最後の事件」が一般公開されたのでみにいった。以前、予告編をみたとき、ヒドコート・マナー(コッツウォルズにあるマナーハウス)の庭、そしてセブンシスターズ(南イングランド 下のバナー「Seven Sisters」)でロケをしていることがわかったので、封切られたらみにいこうと思っていた。何度も書き記しているけれど、英国を舞台にした映画やドラマはロケーションを重視する。
 
 ホームズ(イアン・マッケラン)の家で働いているハウスキーパー(ローラ・リニー)の一人息子ロジャー少年と会話するシーンが秀逸。カックミア・ヘヴンとシーフォード・ヘッドからのぞむセブンシスターズがスクリーンに映し出され、南イングランドの名所セブンシスターズを知らない人でも「ここは?」と目を奪われるだろう。ホームズの家は風光明媚なサウス・ダウンズにあり、セブンシスターズは目と鼻の先だ。
 
 ロジャー役のマイロ・パーカーについて私は何の知識もないが、欧米の子役の演技力はおおむね定評のあるところで、マイロ・パーカーを見ていると演技を微塵も感じず、間合いの取り方も自然で、「マルセルのお城」でマルセルをやったジュリアン・シアマーカを思い出した。マルセルのようにとびきりの美少年ではないけれど。
ロジャー少年はホームズになくてはならない心の友であり、唯一の癒やしである。それも単に安らぎをもたらすのみならずホームズの助手としても優秀で、あたかもホームズに先だって旅立ったワトソンを想起させる。いや、ロジャー少年はある意味ワトソンよりすぐれているかもしれない。このドラマでホームズは93歳の老人、以前にもまして助手が必要である。
 
 頭の回転の早さはホームズ好み、ロジャーに推理や考察の手ほどきをすると、少年は水を得た魚のごとく本領を発揮する。頭脳明晰は小説より映像のほうがわかりやすい。ミッチ・カリン作「ミスターホームズ 名探偵最後の事件」を読んでいない。読書派は想像力云々をいうが、百聞は一見にしかず、ロケーションのスケールと美しさは字面を読んでも伝わらない。
 
 同じようなことはホームズに調査を依頼する男の妻と会話を交わすヒドコート・マナーのスティルトガーデン(下の画像)でも見られる。スケールという点ではセブンシスターズの比ではないが、このスティルト、すなわち竹馬とか足高という意味の庭は、アメリカシデを刈り込み、閉塞感を取り払いつつ隠れた部分の広がりを感じさせ、ホームズの推理によって隠された謎が解き明かされる場面。
 
 依頼人の妻(ハティ・モラハン)との会話で、問題の事件が起きたころの自らの心境を「知識が孤独の埋め合わせをした」とホームズは独白のごとく語っている。そのころのホームズは、「死者は壁の向こう側にいる」と感じている。いうまでもなく死は身近にあるとの意だ。
孤高の名探偵は寂しさを日常としており、知識がその埋め合わせをしたというが、そうせざるをえないほど追いつめられていたのではなかったろうか。現役を引退し30年後、ロジャー少年がホームズの孤独を癒やしているのだ。
 
 「事件は解決した。しかし事件の意味をわかっていなかった」とホームズは言う。30年前の記憶が重くのしかかっていて、この言葉で私たちは、胸のすくような推理によって難事件を解決するだけでは急所に届かないことを思い知らされる。
これまでのドラマに出てきたシャーロック・ホームズはゆるぎない名探偵であっても架空の人物である。だが、このドラマのホームズは実在の人物であるかのようだ。
 
 「Mr.ホームズ」に余分なものがある。原作でホームズが訪問したとされる日本、1945年のヒロシマ。日本とはまったく異なる中国あたりの街と、日本人と称する得体の知れないチャイニーズ。そういういわば小汚い部分はぜんぶカットすべきであった。山椒(脳のはたらきを活性化するという設定)を探すシーンは不要、平坦な英語を話す真田広之の出番は最少にとどめるべきだった。真田広之はともかくとして、意味不明としか思えない薄汚れたシーンはドラマの質を損なう。
 
 ほかの出演者で収穫と思われるのはローラ・リニーと医師役ロジャー・アラム(「新米刑事モース」の警部補。「麦の穂をゆらす風」)。ローラ・リニーは英国俳優と共演するとうまい。「ラブ・アクチュアリー」はローラ・リニーの魅力が横溢していた。
 
 孤独の報われるときはいつか来る。結婚せず、子がいなくても、継承する人間があらわれる日まで幾ばくかの財産を残しておくほうがいい、老いぼれたホームズがそうであったように。老後の隠し財産は追憶にふける体験の質量であるとしても。
 
 


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