Jan. 05,2016 Tue    ZOO
 
 年末から正月の4日間、「暴走地区-ZOO-」全13話がWOWOWで放送された。昨年11月下旬から短い予告編があり、これはと思えたのは、欧州のどこかの町の薄暗い裏通りにサイがいて、女がひとり狭い通りを歩こうとしてサイのほうに振りかえるシーンである。わずか数秒だが見事なワンカットで、みるのを楽しみにしていた。
動物が何かの影響をうけて捕食動物の頂点にいる人間を捕獲しようと行動する。過去、動物が人間を襲うドラマは少なからずあったけれど、ノンストップスリラーのかたちで約40分X13話はめずらしい。
 
 捕食行動(狩り)できない飼いネコがそこいらじゅうのものを引きちぎり喰いちぎるという行為に似た行為は人間にもみられる。捕食行動の進化でも変化でもなく、ヒマをもてあますとロクなことはない。ご乱行とか仕返しの前に自責・自戒に思い至ればすむことを、そうはならないのは攻撃本能が先走るせいかもしれない。
 
 ドラマZOOの発想はすばらしい。主な登場人物5人がそれぞれ分野の違う職種の特性を生かしながら難業に挑む。欧米のドラマは主要人物の背景、過ぎこしかた、いわば心の風景にも力点を置く。それを説明調ではなくルポルタージュふうにえがく。自叙伝じゃるまいし、人生を解説された日には視聴者はソッポを向くだろう。くどい説明は不要、ある日あるときの出来事でいい、それがトラウマになっているなら、それだけで人となりが浮かびあがる。
 
 米国ドラマに出てくる当局関係者のほとんどは危機意識の低い人間としてえがかれる。日本のメディア、特に朝日新聞とテレビ朝日もテロに対する危機感が低い。空爆に誤爆が生じ民間人に犠牲が出るとしても、ISを非難せず欧米のみ非難するとはどういうことか。
危機意識が低いと警戒心のうすいのは当然、だからといってやたらに警戒心が強く、ぎょろ目になるのはダイコンの見本のようなもので、適度に強弱をまぜるのが望ましい。ドラマをわかりやすくするためかどうか知らないが、ノーテンキ市民とマヌケ警官はその手のドラマに不可欠、かれらの存在ぬきでテロリストは跋扈できない。
 
 ついでにいうと、米国人は自国の軍事力は世界最強と思っているし、それは万人の認めるところで、それゆえにテロリストがつけこむスキがある。さあ戦争だと宣言し交戦状態に入れば米国をねじ伏せる敵はいない(ベトナム戦争は例外)。ところがテロリストは予告しない。ある日ある時、不意打ちを食らわす。最強であるがゆえにだいじょうぶというのは思い込みにすぎないのだ。
 
 ZOOに登場する5人のうち女性ジャーナリスト・ジェイミー役のクリステン・コノリーは昨年WOWOWで放送された「フーディーニ 幻想に生きた奇術師」に出演、フーディーニ(エイドリアン・ブロディ)の助手兼妻を怪しく演じた。ニンが合って、いかにもという感じだった。
それに較べるとZOO13話の前半はやる気満々が上滑りして地道な探究心に欠けるジャーナリスト兼腕ききハッカーだが、後半は獣医ミッチ(後述)の影響をうけ変化する。
 
 フランス対外治安局の若き女性分析官クロエ役のノラ・アルネゼデールは2009年秋、日本で公開された「幸せはシャンソニア劇場から」に新人歌手役で出ていた。そのとき弱冠19歳、しかし歌唱力演技ともに熟していた。
「幸せはシャンソニア劇場から」は2009年日本公開映画のベストワンである。それはフランス女優ノラ・アルネゼデールではなく、カド・メラッド、ジェラールジュニヨなどフランスの名優が出ていたことによるけれど、ノラ・アルゼネデールの美しい容貌と軽快で絶妙なタッチの寄与も大きい。
 
 ノラはイメージを一変させてきた。だが、ZOOのクロエはライオンに襲われてハラがすわるのはいいとして、ドラマ全編を通して気合いが入りすぎてよくない。
そういう役どころといってしまえばそれまでで、強さを求められる役だから強い演技をすればよいというものではなく、特に目をむきすぎるのは、みる者を疲れさせる。ここというところでそうしないと効き目はない。放送映像をみていればどこがどうよくないか気づいたはず、素質がいいだけに次回のオファーを期待したい。
 
 ZOOにはほかに3人の男優が出ていた。なかでも演技を感じさせなかったのが獣医師ミッチ役のビリー・バークとサファリガイド・エイブラハム役のノンソー・アノジー。ビリー・バーグは米国ドラマに時々ゲスト出演しており、おやっと思わせるうまい俳優だ。動物行動学者ジャクソン役のジェームズ・ウォークは不屈の精神がうまく出ているとしても、昔のトム・クルーズのようにニヤケ顔が多く減点。
 
 演技の基本はドラマのなかでいかに自分らしさを表現するかだ。自分らしさというのは素の自分ではない、役の自分である。ダイコン役者のごとく一本調子ならしかたないが、人生の喜悦、迷い、悲嘆を経験し、自分と向き合ったことがあるなら陰影に富む人間はかたちづくられていくだろう。そして道は拓ける。あとは想像力の勝負である。しかし、めぐまれた環境は想像力を妨げる。
 
 ドラマとしての発想、展開がよく、動物の使い方にもすぐれた「暴走地区-ZOO-」は2015年6月30日から9月15日に米国CBSで放送された。第一話「反撃の始まり(原題 First Blood )」よりも第十一話から最終話「絶望と希望のあいだ( That Great Big Hill of Hope)」のほうが視聴率は落ちたという。支配する側が支配されるという古典的演出を歓迎する米国人も、斬新な演出に対する抵抗感はあるのだろう。
 
 佳境に入るのは十一話からだ。チーム5人の結束、信頼、人間力が高まり、ドラマのおもしろ味が一気にふくらむのもそのあたりからである。それまでは長いアプローチであり、信頼関係を構築してゆくプロセスなのだ。
米国の視聴者の多くは、この辺で解決と思いきや、元の木阿弥になって終結しないドラマを好まない。そういう演出にストレスをおこすのかもしれない。英国で喝采を得たミステリードラマの傑作「ブロードチャーチ」の評判が米国で低かった理由はそこにある。
 
 ZOOの最終話はあきらかに続編があるというシーンで終わった。続編の製作環境がととのうかいなかは視聴者の動向とスポンサーの思惑にかかっている。
今回の13話ではふれられなかったし、そういう意図はなかったろうけれど、動物を扱ったドラマのなかでふれてもらいたいのは、人間は間違いをおこす動物であり、忘れる動物であるということだ。それゆえに自戒しなければならない。忘れるのはしかたないとして、同じ間違いをくりかえさぬために、そしてドラマの周辺を縁取るために。

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