Dec. 18,2015 Fri    黄金のアデーレ

 
 結局、2015年に上映された映画のなかでこれはと思うものは「黄金のアデーレ」と「女神は二度微笑む」だけだった。4月にみた「ギリシャに消えた嘘」はロケーションもよく、演技に長けた男優ふたりを配しながら詰めが甘かった。6月にみた「画家モリゾ マネの描いた美女」はマネを登場させても淡々として盛り上がりに欠けた。6月の「ターナー 光りに愛を求めて」は映画にターナー作品への愛情が不足しているように感じて期待はずれ。
 
 10月にみた「ヴェルサイユの宮廷庭師」は女性庭師が偶然ルイ14世と出会う四阿ふうの場での対話が出色だったけれど、ほかにこれといってみるべきものがなかった。11月にみた娯楽作品「ミケランジェロ・プロジェクト」は「ミケランジェロの暗号」(2011 オーストリア)と較べてしまうせいか見劣りした。脚本もよくない。近年つまらない作品に出ているケイト・ブランシェットのみがかろうじて光っていた。
 
 映画も舞台もそうであるが、評にかかるものとかからないものとがあって、評にかからないものは論外として、いまさらいうまでもないが、品評すべきものだけを品評している。法外な出演料をもらっている俳優は対価にふさわしい芸容を示すべきで、それができないようならオファーを断るべきだ。自宅のテレビで漫然とみるのではない、わざわざ映画館へ出向いて、入場料を払ってみるのだ。
 
 演じる役がどういう人間か、自分にやれるかどうか、台本を読んでもピンとこない日本の俳優じゃあるまいし、そんなことはちょっと考えればわかることだ。日本の俳優は「お断りしようと思いましたが、挑戦してよかったです」というレベルが多い。挑戦してどうなるかの判断もできていない。
挑戦するのは十年早い。基本をみっちり習得してから考えなさい。連続ドラマに出て演じているうちにダイコンを脱皮するということは十年に一度あるかもしれない。
 
 ダイコンの代表的男優は高橋英樹、唐沢寿明、笑福亭鶴瓶、女優は吉永小百合、浅野ゆう子など、泣きたくなるほどの大ダイコンに賀来千香子がいて、数えあげればキリがない。
ダイコンはどんな役をやってもかわりばえせず一本調子。笑福亭鶴瓶にいたっては落語家でさえなく大阪のおばちゃん。演技の基本も知らぬ俳優を主役級にあてるのもどうかしているが、それがこの業界のありようなのだろう。
 
 演技のキホンは実践で修得すべきだが、いくら回数をかさねても、修得できない人には修得できない。ドラマ、映画のなかで自分らしさを表現できるチャンスをなぜ生かさないのか。想像力をどこかに置き忘れたのか。人生の喜悦、迷い、悲嘆を経験したことはあるだろう。
演技はどう対処するかより自分とどう向き合うかだ。いかに対処するかは重要だけれど、ある日あるとき自分とどのように向き合ったかを忘れるなかれ。自らと向き合うことによって人間は形づくられる。それが演技の基本である。
 
 ナチスドイツが略奪、もしくは略奪しかけた絵画をあつかう映画で近年すぐれていたのは前述の「ミケランジェロの暗号」。うまい脇役がそろうと見応えがあっておもしろい。戦時中にもかかわらず戦争も描かず死者も出さず、それでも名作はできるという見本のような作品。スイスの名女優マルト・ケラーはいまも十分魅力的。
「ミケランジェロの暗号」の主役モーリッツ・ブライプトロイは「黄金のアデーレ」の冒頭部にクリムト役で出ているが横顔だけ数秒、せりふなし。編集でカットされたのだろうが、編集責任者は何を考えているのか。名演をみそこなった。
 
 「黄金のアデーレ」には別の楽しみ方もある。出演者の妙というもので、「ダウントン・アビー」の伯爵夫人コーラ役エリザベス・マクガヴァンが、弱者の肩を持つのは当然といった顔の女性判事をきびきび演じて新鮮。「刑事フォイル」でフォイルの部下ポール役をやっているアンソニー・ハウエルも出ていた、うっかりすると見逃しそうな短いシーンに。
両者ともそれぞれテレビドラマとは役柄も異なる。そこのところをどう演じているかがみもの。エリザベス・マクガヴァンは伯爵夫人役よりうまかった。
 
 黄金のアデーレは正式には「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像1」という絵画で、1907年、クリムト45歳の作品。アデーレはヘレン・ミレンがやる役の伯母にあたる。第二次大戦後、長きにわたりオーストリア政府が所有していた絵画の本来の所有権をめぐって行きつ戻りつ、さまざまな人々がからみあう。
ヘレン・ミレンはおちゃめでまっすぐな役を好演。ほかに弁護士役でようやく本領を発揮したライアン・レイノルズ、名脇役ダニエル・ブリュール、ジョナサン・プライス(ユーモアのある最高裁判事役)などが顔をそろえた。原題は「WOMAN IN GOLD」。1年を締めくくるにふさわしい映画である。

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